Thursday, 11 April 2013

ぼやき

以前にも、日本の著作の中には近代哲学と呼べるものが見当たらないことについてぼやいたことがありますが、先日近所の図書館で半日を過ごしたとき、改めてその事実を実感したので、こうしてそれを記録することにしました。ネット上でこれを公開することによって、「酔い覚めの水」を飲むようにこれを読み、思想の名で増殖するレトリックによって熱した頭を冷ますきっかけになれば幸いです。

名指しで「こういう人たちのこういうところが良くない」と批判をすることもできるのでしょうが、それよりも、全体を見渡してみて散見される特徴を(短所ではありません、念のため)挙げてみます。

  • 日本の古典や、西洋の思想を解読し、解説する
  • 他のテキストを通して、自分の思想を展開する
  • 社会現象を取り上げて、自分の見解を述べる
  • 専門用語を通して他のテキストを暗に参照しつつ、自分の思想を述べる
  • 日記のような調子で思い浮かんだことを記す

おおざっぱですが、こんなところでしょうか。様々な著作を読んでまず思うことは、特に20世紀後半から現在にかけての著作物の多くは、著者が他のテキストや思想家の名前を頻繁に引用している、ということです。頻度よりもさらに大切な点は、著者がこの引用を、自分の思想の脇に付録のように位置づけるのではなく、自分の思想をむしろその引用元の付録のように表現する、という点です。別な言い方をするなら、「~はこう言っている」とか、「~が言いたいのはこういうことではない」という文体で、自分の思想を暗示するという手法が多いのです。

この手法は批判されるべきだと思います。ある思想を表現するのならば、あくまで自分の考えを著作の基盤に据えるべきです。そして、引用元は、批判的に仕事に取り入れ、注釈程度に留めるべきです。有名な過去の思想家の名前は、自分の言っていることに深みを持たせるための手軽な道具となりがちです。固有名一つで、その人の書いた全作品と自分の言葉とを連結させることができるのですから。そして、固有名を乱用したり、引用を増やすことで、「とりあえずこれらを読んでからでないと私の思想は理解できないだろう」と読者に暗に言うことになります。もちろん、これは幻想です。哲学的古典には、それ自体を読んだからといって決まった解釈があるわけではありませんから。本当に何か新しいこと、根本的なことを言っているのならば、自分の言葉で、読者に伝わるように書くべきです。その仕事を読めばそれだけでかなりのところまで理解できるように、配慮するべきですし、逆にそうできずに色々な方向へ参照をし続けてある種の「終わりのなさ」「汲みきれない複雑さ」を演出するのは、裏を返せばクリアに言ってしまっては陳腐になることしか言えていないという可能性がある、ということではないでしょうか。そして、仮に他の著作を論じるのであれば、今自分の書いている仕事が解説書であることを意識し、そちらに徹するべきです。

もうひとつ、批判されるべき傾向として、自分の書いたことの一文一文を深く追究せずに思考を進める、というスタイルがあります。これは、随筆としては楽しい読み物になるでしょうが、哲学としては微妙です。読後に何かが読者の中に残り、世界を見る眼とか、自分の今していることの仕方とかに具体的に影響を及ぼしたり、あわよくばその人の生き方を根底から一新してしまうのが哲学です。そして、それほどの影響力をもつ著作―プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル等はそういう仕事を残しています―では、著者はある考えを異様なまでに執拗に突き詰めます。自分の書いた一文が、どのように解釈されようとも、自分の思想を守り通すことができるか、かなり心配になって、かれらは文章を書いています。書くことや考えることの恐怖を感じながら書いているのです。それは、結果として深みのある著作へと結実しています。そういう重みが、日本の思想書にはなさ過ぎるのです。「本当にそうなの?」ではなく、「そうじゃないとは言い切れないよね」という風なスタンスで考えがつらつらと述べられるのです。そして、「こう言うしかないの?」と問うのではなく、「こういう言い方でも言えちゃうよね」という風に、文体や単語も決められているのでしょう。これは、日記のような書き方で書かれる著作でも、多くの古典を引用しつつ構成された著作でも言えることです。

最後に、全体としてまとまりのない著作が多い、という傾向も批判されるべきです。哲学は古来から様々な分野に分かれています。恐らく哲学の諸分野の分類体系を最初に確立したのはアリストテレスであり、カントがそれをさらに再構成しました。ヘーゲルはそこにさらなる変更を加えました。どの場合においても、それぞれの哲学的著作は全体を視野にいれた上である分野に特化し、その分野内でもさらに他の分野でも通用するような構成を意識して細部の秩序が守られています。そういう丁寧な、そして論理的に腑に落ちるような分類・細分化の作業は、日本の思想書においてはおろそかにされることが本当に多いです。例えば、「自然哲学」に徹した書物が、果たして日本語で何冊書かれているでしょうか? また、仮にそのような書物があるとして、その何冊が本当にその著者独特の思想であり、なおかつ他の古典にもひけをとらないほどの厳密さをもってある考えを論じているのでしょうか? そのような著作があるのかどうか、私は懐疑的にならざるを得ません。

以上のような傾向を改めて実感しつつ、そのような批判に耐えうる作品が見当たらないので、日本には近代哲学がまだ始まっていないと再度感じたのでした。これは、アカデミックな気質の若者にとっては朗報ですが、日本にはすでに何か立派な思想が確立されているのだと考えたがる人にとっては受け容れるのが難しい評価でしょう。どちらにしても、西洋哲学の輸入では解決できないような思想が日本語や日本の文化には潜在していると思うので、まずはそれらを引き出すような言葉をみつけて、丁寧に自分の言葉である体系を築き上げるのが良いのではないかと思うのです。そのためには、ひとまず他人の書いたものは脇にどけ、本当に価値のある古典以外は蔵にしまって、頭を冷やし、そして自分で何かを書いてみるのが良いと思うのです。