Monday, 15 April 2013

「やりたいこと」という言葉と、哲学が現実と接するとき

僕は元来、「自己啓発」という言葉が嫌いで、そういう類の本はイカガワシイものとして敬遠している。読んでいてつまらないし、「励ましの言葉」なんていうのは鳥肌モノだ。最近では、駅前の書店で『ワンピースから学ぶ…』というようなタイトルの、漫画ワンピースからの引用で構成された啓発本を発見した。

このエントリは、啓発書のような、「やる気を出して欲しい」という目的で書いているのではないことは断っておく。そうではなくて、哲学が具体的なものごとに接する瞬間の一つとして、記録しておきたかったから書いた勝手な雑記だと思って読んでもらえたら幸いである。


僕の仕事は、他の人に、その人のやるべきことをやらせることだ。しかし、自分がやるべきことが何なのか、そしてそれをやらなかった場合どうなるのかを全て完全に把握した上で、なおもそれをやれない人というのが相手だ。

例えば、ここに一人の学生がいる。この人は、卒業するべきだと思っている。そして、卒業するためには学校での勉強を理解しなければならない。しかし、かれは勉強をしない。漫画を読み、ゲームで遊び、駄菓子を食べている。

なぜ、このようなことになるのかを考えることは、僕の仕事の第一歩だ。そうしなければ、具体的にこの人と何を話し、何をやり、時が経つにつれて自分が何を変えるべきで、何を続けるべきか、何も定まらない。

このような問題は、僕の仕事だけの問題ではないし、また他人だけの問題でもない。自分で何か自分に目標を課し、その目標に向けてやるべきことも全て把握し、それでもそれをやることができない、というとき、一体自分の中では何が起こっているのか。それがわかるまでは、何も前には進まないだろう。

物質的には、やるべきことをやるのは十分可能だ。知力も体力も、この学生にはある。あとは「やる気」なのだが、やる気とは何か、理解するのは一筋縄ではいかない。やる気とは、何かをやるために必要な心理的な状態のことを表すのだろうが、ではそのような状態とは何かを問われれば、具体的にそれを言うのは容易ではないだろう。さらに、「やる気を出す」などという言葉は、いよいよ本当に理解するのが困難なフレーズだ。これを多用して、あたかも解って当たり前の言葉のように扱う今の日本の塾の広告や日常会話の習慣、僕は嫌いだし、それに対して批判的だ。

「やる気」とは何か、「やる気を出す」とは何か、こういう問いに本当に答えを出したいと感じ、それを自分で、自力で、自分の考えでやりたいと強く願うとき、すでに哲学は始まっている。

バーナード・ウィリアムズという人が、英語で「内的あるいは外的な理由」という意味のタイトルのエッセイを書いている。「やる気」が何かという問いへの入り口として、今僕は知る限りではもっとも簡潔で強力なものだと思う。このエッセイの内容を、かいつまんで紹介したい。

「なぜ勉強しないの?」と問うことは、「なぜ漫画を読むの?」と問うこととセットだ。そして、どちらの場合でも、「___だから___しない・する」という形で答えることになる。前者の___に入るのが、行動の「理由」である。ここまでは割りと馴染みのある考え方だと思う。

この理由を、さらに二つの種類に分けてみる。一つ目に、「内的」理由だ。これは、行動する本人が自分でこうだと言う理由である。二つ目は、「外的」理由だ。これは、本人は認めていないが、他者が「こうだ」と指摘している理由だ。

この区別は、どのような理由にもあてはまる。例えば、「読みたいから漫画を読んでいるんだ」という理由は、パッと見、内的理由にしかならないと思えるかもしれない。しかし、これが外的理由になる場合もある。例えば、僕は漫画に特に興味はない。しかし、仕事相手が漫画を読むから、話題を合わせるために漫画を読む時間もつくる。ここでは、僕の内的理由は、「仕事からの義務感で、漫画を読んでいる」となる。ここで、誰かが僕のところへ来て、「違う、あなたは義務感などから漫画を読んでいるのではない、あなたは単に読みたいから読んでいるのだ」と指摘したとしよう。これは、明らかに外的理由である。

つまり、「やりたいからやる」というのは、外的理由にもなりえる。これは大きなポイントだ。というのも、現代においてはもっぱら、「やりたいことをやりなよ」がつい口をついて出る言葉だ。恐らく、「やりたいこと」ならば、本人にとってもやりがいがあるだろうし、やるのも容易だろう、と思って、そういう言葉が出るのだろう。しかし、それは「やりたいことをやる」イコール内的理由、という考えに縛られた言い方だ。人間は、自分のやりたいことよりも、やりたくはないがやらねばならないことを優先して、なお幸せになれる生物なのだ。だから、「やりたいことをやれ」というのは、往々にして実はかなり辛い要求をしているわけだし、こんなアドバイスに従った結果人生が無意味で形のないものに感じられ、虚しくなってしまう人が出たとしても不思議ではないだろう。

さて、ウィリアムズによれば、全ての行動は内的理由からしか行われない。つまり、本人がこうだと言っている理由からしか、その本人は動くことがないのだ。これも、パッと見「当たり前」に思えるかもしれないが、良く考えてみると、私たちは日常的にこれとは正反対のことを前提とした行動をとっている。というのも、例えば「悩み相談」なんかをするとき、私たちは自分の内的理由よりも、他の人からくる外的理由を欲しがっている。そして、相談相手から言われたことに奮起して行動を起こした場合、その相手を「恩人」として慕うことになるだろう。このようなとき、私たちは、自分の力で行動を起こしたとは思わず、相手の言葉をありがたいと思い、相手のおかげでここまで来れた、などと思う。

このような考え方は、実は幻想なのだ。相談しようと決めたのは自分だし、相手の言うことを参考にしようと決めたのも自分だし、それに基づいて行動したのも自分だ。そして、相手の言ったことのおかげで何かを達成できた、と思うのも自分だ。どこまでいっても、これらは内的理由だ。そして、相手の言ったことも、一時的に外的理由であったに過ぎず、相談し、それを聴き、それを基に行動するまでの一連の流れは全て内的な流れなのだ。

逆にいえば、外的理由が、単に外的なままの状態であるうちは、どんなにそれを繰り返し自分や相手に言い聞かせたところで行動には繋がらない。そのため、例えば「勉強しなさい」という言葉がいつまでも外的である場合、私たちはまずそれを内的にするための別の言葉を相手や自分に言い聞かせる必要がある。「私の話を聴きなさい」というような言葉。そして、それも受け容れてもらえなければ、さらに別の言葉に頼るしかない…

こうして、目標とする行動に至るまでの言葉の流れを逆にたどっていくと、ついに自分や相手の今の状態と無理なく繋がる言葉に出会うはずだ。そして、自分や相手を奮い立たせる作業は、この瞬間から具体的に始まるのだ。今度は、何度も言い、何度も聞いてきた言葉、しかし自分の内的理由にはできずにきた言葉を、行動に繋がる言葉として再解釈してもらうための作業が始まる。

例えば、勉強しなさい、という言葉から始まって、パソコンを開かない、というところに行き着いたとしよう。勉強せねばと思うだけでは到底勉強ははかどらないが、パソコンに時間を費やす習慣を止めることはできそうだ。だから、まずはパソコンを封印することだけに集中しよう、というように、「パソコンを開くな」という言葉は内的理由になりえる。そして、パソコンをしなくなった結果、生活に明らかな変化が起こり、次にまた新たな内的理由を設定しそれを基に行動を起こすことができるだろう。例えば、1冊の本を読みきる間は、他の漫画は読まない、というような、余った時間を活用できるルールを考えるのだ。 そして、本を読みきったという経験によって、「自分は本が読める」と思えれば、今度こそ「勉強せよ」という言葉が内的理由として働くだろう。これは少々楽天的すぎる例だが、そういう風に徐々に外的理由を内的に変えていく作業が、行動を起こすということだ。

ウィリアムズのエッセイから引き出せる、「やるべきことを徐々にやれるようにする」ための戦略は以上だ。もう一つ、伝統的な哲学の考えから、「やる気」の問題を考えるヒントが引き出せる例をみてみよう。

2000年以上も前から、人間の内面は「動物的欲望」「習慣からくる感情」「理性からくる意志」の三つにわけられてきた。そして、この区別は現代でも有効だと思う。ある行動をとりたい、あるいは他人にとってほしいのに、それができない、という背景には、これらの感情の内一つが支配的になりすぎていることが考えられる。

例えば、理性的には「仕事をしなければならない」「運動をしなければならない」等という結論に至ったとしよう。お金がないから、あるいは身体が弱くなってきているから、といった理由で。しかし、仕事を頑張ることもなければ、ジムに通ったりマラソンをしたりすることもなく、代わりに昼寝をしたり、ゲームをしたり、YouTubeで動画を見て時間をつぶすかもしれない。

昼寝は、身体の疲れからくる動物的欲望がその理由である。そして、ゲームやYouTubeは、過去に快楽を感じた行動を、習慣から繰りかえしているにすぎない場合が多い。他にも、同じようなポップ・ミュージックを飽きずに何度も聴いたり、見なくても展開がわかるようなハリウッド映画をわざわざ観に行くなんていう行動にも、習慣の力は働いている。理性の力に比べて、これらの力が強力で、そのためこの人はなかなか自分がすべきだと思っていることを実際にすることができない。

この人が具体的にどうすべきなのかは、さきほどウィリアムズのエッセイに関連して述べた戦略を実行することで見えてくるだろう。ただ、人の内面について、ある安定した知識がない限り、これをすることはなかなか難しい。「欲望」「習慣」「理性」の区別は、ここで役に立つ。

往々にして、私たちは今自分が欲望から何かをしているのか、習慣からか、はたまた理性からか、わりと良く理解している。うまく理解できないのは、この三つのうち、どれを優先すべきかということである。「理性を優先すべき」と口では言うかもしれないが、それでも理性からの意志に従うことができないのは、その人が結局、欲望や習慣を優先した方が良いと信じている証拠だ。なぜ自分がこのようなことを信じ込んでいるか、それを把握することがまずは本人にとって大切だろう。

ここで、欲望や習慣が支配的になる理由は色々とあるだろう。それをいちいち追究していたのではキリがない。そこで、「もう理性に従うことにして、あとはとりあえず忘れる!」と思えるようになるには、理性が動物的欲望や習慣よりも大切だと納得できるようになることだ。

欲望からくる行動は、本人にとっては一時的な快楽となるかもしれないが、他人からみたら何の価値もなく、また本人にとっても、快楽が終れば何も残らない。その意味で、欲望に従う人は今しか見えていない人だともいえるだろう。対して、習慣に従う人は、過去に自分がしてきたことを繰りかえしている分、少し時間的にまとまりのある人格者だといえる。それでも、過去に縛られたままで、その人は成長できない。理性は、欲望や習慣とは違い、何にも縛られていない。完全に自由である。

理性に従うということは、どういうことか。まず、本人が、自分の過去について、色々と新たな解釈をしてみたり、今も残しておきたい習慣を選んだりする。次に、未来について考え、自分や自分にとって大切な人の生存に必要なことから、満足した状態がどんなかを想像するところまで考える。そして、現在に戻り、今新たに何をすべきかを知り、それをするにはどうすれば良いかを計画し、自分で自分を教育すること。これが理性の働きだ。欲望も習慣も、理性にとってはどうとでもできる材料に過ぎない。理性的に何かをすることこそ自由であり、それが満足の条件だ。

こういうことを、単なる思考の遊びとしてではなく、今僕が向き合っている色々な人が抱える具体的な問題の解決の糸口として捉えた。自分のためにこうして書きとめておくが、誰か他の人の役に立つテキストにもなってくれたら、それはインターネットが可能にした幸運だ。