Friday, 3 May 2013

新しい作品の構想

たった今、ニューヨーク・タイムスで一考に値する事実を発見した。去年あたりから、自殺によって亡くなる人のほうが、交通事故で亡くなる人の数よりも多くなっているとのこと。詳しくはコチラ

コリングウッドの作品の和訳は順調に進んでおり、そろそろ半分が終りそうかというところ。今は『哲学の方法についての考察』に取り組んでいるが、もう一冊、最近再版された『Speculum Mentis』という本も訳す予定である。タイトルからしてすでに翻訳が難しい。もっとも単純に訳すとすれば『思想地図』となるので、暫定的にこのようにしたい。(既に「思想地図」という題名の思想誌は存在するので、著作権の問題が起こる可能性もあるけれど。)

『方法』の方が、哲学を始めるにあたって注意しておきたいことを教えてくれる作品であるならば、『思想地図』はその実践である。芸術、宗教、歴史、科学、哲学の五つの学問について、それぞれ意識の発展段階として設定して、『思想地図』はそれを細かく分析している。読んでいて胸がすくような綺麗な文体でコリングウッドは思想を表現するので、これを日本語にするのはなかなか骨の折れる作業となりそうだ。『方法』はこれに対してとてもキッチリとした、緻密でゴツゴツとした文体だ。これの方が、美しさや快さをとりあえず脇に置いて和訳できるので、気が楽といえば楽。いずれにせよ、『方法』から『思想地図』までを訳して一冊の作品にまとめれば、日本語で西洋哲学を読むためのとても良い入り口になるが一つ完成するのだと思う。

こうして翻訳を進める一方、街を歩いていたり、空いた時間に色々と他の作品を読んでいるうちに、私の頭の中には今まで自分の触れてきた思想とは少し種類の違う作品が具体的になってきてもいた。着想はヘーゲルの『論理学』やコリングウッドの『思想地図』に得ているし、本の構成としては似たようなものになると思う。

まず、メインの内容としては思考の建設的な成長を表現する。ヘーゲルがドイツ語の厳密さを、コリングウッドが英語の軽快さを駆使してあるシステムを作ったように、私も日本語の感触をうまく良い流れに乗せる必要がある。そして、読み手や自分自身の直感や知的欲望を頼りに書くことはしない。あくまで思考の必然性に乗ること。ある一つのスタイルに固執しすぎないこと。科学や社会学、文学や歴史、宗教などを当然視野に入れて書きたいとも思っている。次に、この思考に興味を持ってもらうために書く導入部分。ヘーゲルは作品とセットになるべき部分を『導入』として、そして自分の作品がある限定された時代背景をもつ読者に読まれるときにさらにそこに加えるテキストとして『序』を書いた。この形式は守りたい。『導入』は作品の一部ではないが、しかし作品に入る前に批判しておきたいことを述べる。対して、『序』では、今、ここで誰かが哲学を日本語で始める場合に感じるはずの問題を考えるための章にする。

一つ、『序』に入れるか『導入』に入れるかまだ決めかねているテーマがある。「自由」という言葉についての文章だ。その起源、それが今常識的に持つ意味、そしてそれが哲学的に持つべき意味を書きたい。「FreedomとLibertyの違い」についてはとりあえず脇に置いておく。日本語に限定して考えてみたい。哲学は、自由に考えることだ。だから、「自由」をどう理解するかは、哲学に入るにあたってとても大切だ。もちろん、具体的な自由の観念は哲学の中でしか発展しないので、導入部で何か確実なことは言えない。ただ、「これは自由ではない」という具合に勘違いを取り除いたり、「昔はこうで今はこうである」という比較を通して色々な視点をうまく重ね合わせたりすることはできるから、それをまずはやりたい。