コリングウッドの『思想地図』は、矛盾する二つのことを教えている。ある学問(それは、ある意識の在り方、と言い換えた方が正確なのだけれど)はそれ自身で追究されるべきだけれど、同時にその学問だけに留まっていてはその学問自身の狙いが果たせない。例えば、コリングウッドは経済学を例にして、経済学でなければものごとを「事実」や「データ」へと分解して「法則」によってまとめることはできないけれど、同時に経済学はそれのみでは人間の意識の構造を解き明かすことができないので、仮に「経済学は他の社会学よりも科学的だから、私たちは経済学で解明されたことしか信用してはならない」などと言おうものなら、私たちが不満を抱えることになり、それはそのまま経済学がはまってしまう落とし穴でもある。どういうことかというと、自身が社会学の代表であるかのように振舞うと、「データの集積と分析」という機能がそれ以上の意味をもたない単純作業となってしまい、そもそもなぜこのデータを集め、なぜこのような分析をしているのか、というような、経済学が不可避的に抱える問いにいつまで経っても答えが出ない。その結果、経済学は自分のやっていることを自分で把握しきれないことを知りつつも、それをどう把握すれば良いのかわからないままでいるしかない。その結果、「自分は社会学の代表であるはずなのに、他の学問でしか解決できなさそうな問題をもってしまっている…」と悩む。最終的には、他の学問へと発展することでしか、経済学は満足に自分の役割を把握することができないのだ。逆に、「自分は歴史や哲学との関係の上で成り立っている」という視点に立てば、経済学は自身の限界を肯定的に捉えることができるので、自立した学問として機能するのだ。
こういう思考の流れは、哲学用語では「弁証法」と呼ばれる。コリングウッドも、この言葉を使っている。弁証法とは何か。それは、精神の成長、あるいは発展・拡大の動きを表現している言葉だけど、ではこの拡大とはどのようなものなのか。例えば、Aという精神状態があったとする。今、たまたま自分が感じていることに支配された、感情的な状態だとしよう。Aは、自分の感情によって限定されている。このとき、Aは不完全だが、限定されているから不完全なのではない。弁証法的な不完全さとは、そういうものではない。Aは、自分が限定されていることを知っていても、自分を限定している他者を否定している。この否定こそが、Aを不完全たらしめる要素なのだ。他者は、確かに存在し、相手なりの論理を―それが物体であれ、考えであれ、人であれ…―持っている。この論理を把握できないまま、あたかもそれがないかのようにそれを否定しているのが、Aの不完全さなのである。Aが不完全さを乗り越えるには、この他者へと自分を「拡大」するしかないのだが、それをするためには、まずは自分の否定的な動き、他者を否定しているその状態を否定しなければならない。この、「否定の否定」がなかなか難しいのである。ただ、それを上手く成し遂げたとき、Aは単に他者を自分と並べて比較できるようになるのみでなく、他者になりきるのである。AはもうAではなく、Bという新しい精神状態へと発展しているのだ。相手を理解するということは、同時に自分の精神が新しい状態へと成長することと同一なのだから。これが、弁証法的な動きである。もちろん、だからといってBはAに「勝っている」とは限らない。Aが否定している他者は、間違った、あるいは極悪の他者かもしれないからだ。間違いや悪を自分の中に受けいれた結果、Aはより悪い方向へ、より間違った方向へと引きずり込まれることにもなるだろう。こうしてBとなったとき、絶望は深まるばかりなのである。こうした動きに優劣をつけることはほとんど不可能だ。この、良いことも悪いことも次々に引き受けて進もうとする思考の動きが弁証法なのだ。
コリングウッドの『思想地図』(Speculum Mentis)は5つの精神状態を弁証法的に論じた作品だ。これらの状態について、コリングウッドが述べていることを僕なりの言葉で再表現するのには時間も空間も足りないし、そもそもそのような書き換えにはあまり意味がない。そういうことではなく、ここでは僕が特に興味を持った箇所をパラフレーズしつつ、それらの点のどこが面白いのかを述べてみたい。
1.芸術
『思想地図』の弁証法のトップバッターは「芸術」(Art)である。芸術の本質は、想像によって作られた世界をそのまま真実として受けいれている点だ。芸術家にとって、意識の対象となるものごとは全て真実であり、そのためそもそも真実とは呼べない。真実と虚偽との違いがここにはまだ生まれていないからだ。同様に、善悪もまだない。芸術が行動をとるとき、それは「遊び」(Play)であり、遊びは全てそのままで価値のあるものとされる。
芸術は、そのためもっとも自由で、広がりのある意識なのだ。コリングウッドは、私たちの精神が成熟し、行き詰まりを感じたときに芸術へと方向転換する動きを、身体の乾いた両生類が再び泉へと飛び込む様子に喩えている。この喩えは、よくわかるし、芸術の必要性をとてもよく表現していると思う。とりあえず真偽や善悪はおいといて、いけるところまでいってみよう、というわけだ。
芸術の限界は、どこまでいっても何もまとまってこないことだ。ある日は何かに興味をもち、遊び、また別の日には別のことに興味をもち、別の遊びをする。それらが具体的にどう人々の記憶に残り、何の意味があるのか、芸術は答えを出すことができない。そして、芸術の限界は、このような答えを出すことができないという点にあるのではない。そうではなくて、そもそも世界には真偽も善悪もない、という風に、自分の外側にあるものごとを一方的に否定している姿勢にあるのだ。
2.宗教
宗教は、芸術の他者への否定性を否定した結果誕生する。宗教にとっても、想像力から生まれた対象がそのまま現実である。ただし、宗教の対象は、いまここにある作品や遊びなどではない。むしろ、全てに通底するような大きな存在、すなわち「神」である。神は想像の産物だけど、記憶に残る産物だ。ものごとに真偽や善悪を与えてくれる。芸術は世界観を作り出すことはできないが、宗教は世界観を作り出す。「神」を背景に行動するとき、宗教は「崇拝」をする。誰かが神を崇拝しているかどうかは、例えばその人がミサに行くかどうかに左右される。なぜミサに行くことが神の崇拝であり、例えば本を読むことや美しい風景にうっとりすることは崇拝ではないのか、と訊かれれば、宗教は「そう決まっているから」としか答えられない。
そのため、何が「神」で、何が「崇拝」なのか、宗教は「常識」によって決めている。これが、宗教の限界である。宗教は、常識ではない仕方で神や崇拝を考え直す意識を否定している。
コリングウッドいわく、宗教は決して馬鹿馬鹿しいものではない。芸術が幼稚な遊びや、その場限りの物体で満足していたのに対して、宗教では世界に通底する何かへと精神が拡大している。この進歩は、とても大きな進歩である。これは宗教が可能にした進歩なので、宗教を笑い、宗教が生活に不必要だと豪語する人は、芸術的な意識に逆戻りする可能性が高い。あるいは、それとは知らずに宗教的な意識に留まるかもしれないが―というのも、宗教の否定も、結局のところその人の世界観からくる「常識」によってされているにすぎず、そのためそれ自体も宗教的なのだから。
3.科学
常識ではない方法で世界観を構築したい―この欲求を解放してあげることが、科学の誕生へとつながる。科学的な意識は、神ではなく「抽象概念」を対象にしている。ものごとを概念的に把握し、世界を客観的な体系として捉えること。これが科学の使命だ。科学は、「常識的にこうだから」などという考えには縛られていない。常識的に正しいと思われていることは、本当に正しいのかもしれないが、だとしたら別の理由付けが必要だ、と考えるのが科学だ。行動に移るとき、科学的な意識は「功利主義者」(Utilitarian)となる。
功利主義は、抽象概念に基づいた行動原理だ。科学と功利主義とを明確に結びつけたコリングウッドの視点は鋭いと思う。
例えば、「経済学」は人間関係を商品の動きによって捉える。このような意識で人が行動すると、どうなるか。必然的に、ものの値段や、ものの量、またそれが自分にそれくらいの快楽をもたらすか、などといった、数値化できる要素のみに関心を抱くだろう。そうして頭の中で計算をした結果、何かをする決断―それは、往々にして何かを買う決断なのだけれど―に至る。
科学の限界は、功利主義の限界でもある。抽象概念によって構築された世界観は、現実世界の細部を無視してつくられている。科学的な「事実」も、結局のところ実験室のような人工的に統御された環境で生み出されたものごとであり、何かをなるがままにさせておいてそれを観察した結果ではない。同様に、功利主義者の行動も、人の行動の細部については盲目的である。数値化できない、あるいは損得勘定では捉えきれない動機や行動の意味は、功利主義者の視野の外に存在している。
例によって、科学や功利主義の限界は、このような盲目さにあるというよりも、抽象概念や値段等以外のものごとは大切ではないし意識する必要もない、という否定的な態度にある。しかし、具体的に世界を把握し、具体的な行動を起こすためには、どうしてもこれらの細部に気を配る必要が出てくる。
4.歴史
歴史は、科学では手に負えないような世界の細部を積極的に考える学問分野である。これによって、科学が抱えていた問題を弁証法的に乗り越えている。
コリングウッド自身歴史家であり、歴史についての章がもっとも読み応えがあった。特に面白いのは、コリングウッドが指摘する、歴史的な意識の問題点である。それは、歴史という学問が抱える問題そのものでもある。
歴史の問題をみるには、まずは歴史とは何なのかを把握する必要がある。歴史とは、細部にわたって把握された対象である。科学では、ある具体的な現象は、抽象概念の一具体例にすぎず、そのためあってもなくてもどちらでも良いものである。例えば、僕のペットボトルの中に水分子があるということは、科学者にとってはどちらでもよい。歴史家にとっては、そうではない。僕が今ペットボトルに水をいれているという事実は、そのまま歴史的な興味の対象になりえる。なぜ、この人は、この社会的な環境において、こうした水の保管の仕方をしているのか? 僕が自分自身の状況を具体的に把握すればするだけ、歴史的な知識も豊かになる。理想的な段階では、歴史的な知識はものごとのユニークさ、あるいは「個性」を明確に表現してくれるものだ。例えば、日本でペットボトルに水をいれて持ち歩くことと、メキシコで同じことをすることを、同一のものとしてみるのが科学であるならば、この二つの違いを明らかにしてくれるのが優れた歴史家の役目なのだ。
さて、今ここで起こっていることの個性を表現しつくそうとする場合、他のものごととどう違うのかを明確にしなければならないわけであり、またなぜこのようななったのか、その理由も汲み尽さなければならない。しかし、事実は調べれば調べるほどさらに新しく発生するし、理由も汲めば汲むほどさらに深い迷宮へと成長していく。歴史家にとって、ある現象の個性を完璧に表現することなど不可能なのである。これは無限の課題であり、努力目標でしかない。コリングウッドが指摘する問題点はここなのだ。
さらに面白い批判: コリングウッドいわく、ある現象について私たちがすぐに合意するとき、それはお互いがそれについて熟知しているから合意するのではなく、無知を共有しているから合意するのである。歴史的な意識の視点からは、こうして宗教的な「常識」の上で成り立っている「神」についての知識がいかにいい加減なものかが改めて明確になる。細部について知っているからこそ、私たちは何かについて、相手には譲れない意見を持つし、それがぶつかるから議論もする。議論が起きるということは、私たちが世界や自分たちについてよく分かっている証拠なのである。対立はそのため知性の証なのだ。相手の言っていることを理解できないから議論が起きるのではない。相手の言っていることだけでは把握しきれない何かを知っているからこそ、もどかしい思いが起こり、議論したくなるのだ。
歴史的な意識にとって、世界は短い一言によってはとても汲み尽せない現象で満ち満ちている。そのため、誰かが何かを言うとき、ついそこに口出しをしたくなるのは歴史的な性癖だ。別に、その人が言っていることが間違っているから口出しをしたくなるのではない。ただ、「さらにこんな側面もあるのじゃない?」と、さらなる細部を指摘したいので、口を出すのだ。逆に、「それは違うのでない?」と一方的に相手を否定するのは、歴史ではなく科学の立場に戻ることなのだ。というのも、仮に相手が言っていることが自分の知識と食い違っていたとしても、その食い違いの原因を知ることで、相手の「間違い」がその実自分との「違い」であるにすぎず、相手もまた自分と同様に理性的なのだということを学ぶから。例えば、「第二次世界大戦は1946年に終った」と言った人に対して、日本人なら誰でも笑みを浮かべて「1945年という意味でしょ?」と返答したくなるだろう。しかし、その人にとっては、1946年なのである。もしそれが、ある文献を鵜呑みにした結果起きた「誤解」なのだとすれば、それがそういう理由で生じた誤解だということを明確にしてこそ意味があるし、逆に「僕が1945年が終戦の年だと思っているのも、別の文献を同じように鵜呑みにしていたからかもしれない」と、自身の限界も知るきっかけになろう。こうして、単に相手が間違っていて自分が正しい、などという一方的な視点は乗り越えられ、「文献を鵜呑みにしないで終戦の年を決定する方法は何か?」という新しい問いを一緒に考えることができる。(そして、この問いに対する答えが食い違った場合、その食い違いの原因を丁寧に考えることで、また新しい問いが生まれるかもしれない。)このような話、僕は好きだ。単に「間違い」として斬り捨てても、その間違いは無視されるだけで、変わらずに残る。無視せずに積極的に相手をしてやることでしか間違いは解消できない。それに、このような歴史的な話は、話している人の人格を越えて進むから、自分の愚かさや小ささ、無知や無力さを少しの間忘れて、自分よりも大きな何かに没頭できる。こういう側面も、僕は好きだ。
歴史では、ある現象の個性は無限の事実の網の目の中にあるものとして理解されていた。しかし、私たちの精神は有限なので、ものごとの個性を完璧に把握することはできない。そこで、歴史家は悩む。どんなに詳しく何かを調べつくしたつもりになっていても、また新しい切り口からその現象を捉える他者がいることを知っているから。
ものごとを有限にしか捉えられない人間を否定しつつ歴史的事実とは何かを考えているところに、歴史的な意識の限界はある。たしかに、歴史とは、無限の課題であり、それは間違ってはいない。しかし、だからといって歴史的事実を一方的に意識の彼方へと放り出してしまうことは間違っている。人間の主観、あるいは精神を否定している状態を乗り越えるにはどうすれば良いのか。
5.哲学
主観こそが絶対だが、同時に世界こそ主観的なものである、という視点が哲学だ。例えば、さきほどの例に戻れば、今ここで僕がペットボトルに水を入れている原因を調べていくと、プラスチックの歴史や、それがどう日本に輸入され、どうやってここまで来たか、等等、無限の情報にぶち当たる。「こんなの、全て把握しきれない!」と思うと同時に、僕は、ペットボトルについて詳しい人ならば、今の僕の状況をきっと全く新しい視点から表現できるのだろうな、とも思う。自分の今置かれている歴史的な状況を、自分で把握しきれていないことを、僕は最初は恥に思い、自分の無知を責めて、「結局、何もわからない」などという極端なところまで行くかもしれない… しかし、限られてはいるものの、何かを知った状態でこのペットボトルをみている、というのもまた事実である。これは、ペットボトルの歴史についての事実ではなく、それを把握している人間の精神についての事実である。人間の精神は、こうして限定的なものとして、新しい学問の研究対象となる。これが哲学だ。
哲学においては、意識のもつ限界は肯定的に捉えられる。哲学は、思考がどのようにして限定されるか、そのパターンを表現したり、その限界によってどのような行動を強いられるかを研究する。もちろん、これによって明るみに出るのは、哲学者自身の限界である。そのため、哲学とは人が自分自身について知る学問なのだ。
コリングウッドが本の最後の方で提示する「絶対倫理」(Absolute Ethics)は、哲学的な意識で起こされた行動のことを指している。自分勝手に好きなことをすることではない。歴史的な意識で世界を把握しつつ、同時に自分が把握しきれていないことを把握し、さらにその無知は、自分の弱点なのではなく、単に未来に向けて可能性が開けていることを表しているのだという視点に立って行動を起こすこと。ある意味単純な行動原理だけれど、いい加減な精神状態では実践に移せないものでもある。
以上が、『思想地図』のおおまかな流れと、その中で特に僕が興味を持った箇所だ。色々な読み方ができる作品だから、またぜひ新しい解釈をしたいと思っている。