Monday, 20 May 2013

「幸福」は哲学的な概念になりえるの?

日本では「幸福の科学」などというものが横行しているくらいだから、幸福は科学的な思考の対象になり得ると考える人も多いのだろうし、幸福について知ればそれだけ自分も幸福になれると期待する人もけっこういるのだろう。ダニエル・ヘイブロン氏の『不幸の追求』(原題は『The Pursuit of Unhappiness - The Elusive Psychology of Well-Being』 で、和訳はまだ出版されていないようだ)は、このような幸福についての態度を批判する良書だ。ヘイブロン氏いわく、私たちは何が自分たちを幸福にするのか、抽象的にも具体的にも知ることができない。それだけでなく、仮にそのような知識を得たとしても、それを元に何か行動を起こすとき、それが本当に幸福へと繋がる可能性は非常に低い。

「幸福」を主題としている以上、若干自己啓発書的な味のある作品ではあるのだが、それは仕方のないことだ。少なくとも、その啓発の方針が「あなたもこうすれば幸福になれる」というようなポジティヴなものではなく、「あなたが思っているほど、幸福というのは甘くない目標なのだよ」といった批判的なものであるだけ、好感がもてる。特に、「沢山の選択肢(あるいは「将来への大きな可能性)を持っている人ほど幸福になれる」というリベラルな立場は徹底的に批判されており、読んでいて痛快だ。

こうした啓発書的な側面よりも、僕はこの作品の哲学的な部分が面白いと思う。哲学者が「幸福」を概念として探究することはほとんどない。プラトンは「徳」だし、カントは「道徳」や「自由」だし、ヘーゲルは「芸術」や「宗教」だ。幸福というのは人それぞれだし、せいぜい心理的な状態に過ぎないのだから、普遍的なものごとを扱う哲学が興味をもつほどの概念ではない。そのため、幸福について哲学するのは難しい、ということだろう。そういう前提をよく承知した上で、ヘイブロンは幸福について書いている。様々な実例や統計に基づいて、私たちがいかに幸福が何かをわかっていないかを詳しく説明してくれる。すると、「心理的な状態」にすぎない幸福というのがどのようなものなのか、みえてくる。ここに着目すると、ヘイブロンの作品を、哲学的な幸福論への準備作業として読むこともできると思うのだ。

例えば、「幸福とは、各々が自分の望むことを実現することだ」という立場があったとする。これはまだ哲学的といえるほど厳密ではないが、一般的にはわかりやすいし受け容れやすい考え方だと思う。ヘイブロン氏にいわせれば、このような考えは二つのことを前提としている。一つ目は、人間が自分の幸福とはどのような状態か、正確に把握できるということ。これをヘイブロン氏は「透明性」(Transparency)と呼ぶ。二つ目は、 自分が目指す幸福を実現するために、人間は自分で最善の行動をとることができるという前提。これは「優秀さ」(Aptitude)と呼ばれる。ヘイブロン氏いわく、この二つの前提はどちらも根拠がない。そのため、完全に間違っているというわけではないが、無条件に信じてしまうのは良くない。だとするならば、普遍的な概念として、幸福は決して「自分の望むことの実現」のみではないのだ。

さて、日常的な思考回路はいったん休め、ここから哲学的な頭に切り替えることにする。どういうことかというと… 日常的な考え方では、一方が間違っていれば他方が正しい、というように、間違っていることと正しいこととはわりときっぱり分かれている。そのため、仮に「自分の望みの実現」が幸福の概念にそぐわない定義だとするならば、それは「間違っている」ものとして切り捨てられてしまう。哲学では、このような単純な切り捨てはしない。たしかに、このような定義は幸福の概念を不十分にしか表現していないのだろう。しかし、この定義を土台に、さらに洗練された定義を考え出すこともできるかもしれない。そう期待して、最初の定義を頭の片隅におきつつ思考を進めるのが、幸福の概念の哲学的に把握するということなのだ。

残念ながら、ヘイブロン氏の作品はまだ以上のような哲学的な作業にまでは踏み込んでいない。それでも、甘い言葉やそれっぽい考え方にだまされずに、統計と実例とに集中して粘り強く論を展開してくれるので、哲学への序章としてはこれ以上ない良い作品だと思う。