Tuesday, 7 May 2013

雑念集

西洋的に解釈すれば、「雑」はラフ、「念」はアイデアのこと。繋がりが綺麗に整理されていない思考の欠片の寄せ集め。

1.伝染する苦しさ

「恋人」「浮気」など、なんとなく腑に落ちない言葉でしか恋愛が語れないのはもどかしいけど、それでも今すぐ何かそれについて書きたいことができたとき、代案を落ち着いて考えるほどの知的余裕がない、時間もないときは、それらの言葉を、不本意であっても、使うほかないみたい。

恋人がいて、その人が誰か他の人とセックスをすることは、浮気だけれど、単に他の人とデートをしたとか、互いに好きだと言い合ったのだとか、そういうものとは少し違う種類の浮気だ。セックスは特別な意味を持っている。きっと想像や現実で度々色々な人が通り抜けてきたこの奇妙に苦い感情の正体は以下のようなものだと思う。

なぜ言葉ではなくセックスがこの感情を誘発するのか。まずは、浮気をされたときに漠然とこの苦い感情を抱いてしまうような相手、つまり本当に意味の恋人が、どのような人で、そのときのその人と自分との関係はどんなかを言葉にしてみる。単にその人と一緒に時間を過ごしたいとか、一緒に色々なことをしたいとか、想像を巡らしている段階では、その人はここでの意味における「恋人」ではない(もちろん、一般的にはそのような想像の対象は恋人と呼ばれているのだろうけど、 それは「恋」という言葉を安っぽくする原因にもなっていると思うし、とにかくここでの文脈とは別物だ。) 恋人と関係するとき、自分は恋人が自分の一部だと感じている。確信的に。よく、恋人が遠くに行ってしまったり、その人の行方がわからなくなってしまったり、あるいは亡くなってしまったりしたとき、後にのこった方の人が「自分の一部が失われたような」気持ちになると言われる。これは、比喩的にではなく、そのまま受け止めるべき言葉だ。これが比喩に思われてしまうから、恋について語るのはいよいよ難しいのだけれど。それで、自分の一部である恋人が、他の異性とセックスをするということは、自分がその人と身体を交わすことと同じなのだ。だから、浮気の中でも、セックスは特に高密度でいかんともしがたい感情を沸き起こすのだと思う。

変な話に聞こえるかもしれないけれど、これ以上良い説明が思いつかないのだから仕方がない。でも、説得力があるとは思う。恋人が他の人とセックスをしたと知って吐き気に近い気持ちを覚えるのは、たとえそれがすぐに消えたとしても、やっぱり何か自分が犯されたような気持ちがするから来るのだと思う。それに、恋人の身体に起こったことを、あたかも自分の身体に起こったことのように受け止めているのも事実だと思う。つまり、頭では気持ちを切り替えたつもりでいても、何の前触れもなく突然あの吐き気やあのわけのわからない苦い感情が身体の中から湧いてくるのは、結局身体にそれが刻み付けられているから。


2.新しい人との遭遇

新しいことと遭遇するのはとても難しい。最初は、原色を見たことのない人が色を初めて見るように、文化において色々な観念と触れることで新しさを味わうことができる。この純粋な最初の段階は、混色の段へと進んでも失われないけど、もう新しいことではなくなっている。

新しいことと遭遇するためには、何の役にも立たないことをしていなければならないと思う。そして、今自分がしていることややっていることについて、他人ならどう思うだろうか、という風に悩むのは止めるべきだとも思う。どんなことでもそこには新しさが潜んでいる。

あることを新しいものとして表現しなおせば、どんなことでも新しくなる。今ここで、「普通に見れば」特筆すべきことはない平凡な生活。「将来への展望」なども見えない状態。それを単に不幸で不安なものだと解釈してしまっては、何も新しいことはない。でも、これが不幸で不安なのに、ケロンとして生きていれば、それだけですでにその人は新しい人だ。僕はそういう人を知っている。そして、そういう新しい人は、そのような直接的な、何も変化を加えない新しさに加えて、さらにもう一つ、意識的に自分の平凡さを昇華する術も持っていることが多い。つまり、かれは表現するための手段を豊富に持っている。それの何が面白いのか、何が大切なのかがすぐにはわからないことを言うが、言い続けるのを聴くうちに、その人の新しい人としての輪郭が段々と鮮明になってくる。この人はある特定の新しさを主張しているのではなく、ただ役に立たないことをうまく紡ぎ合わせることで、新しい空気を吸うための空間を僕にくれるのだ。


3.時間

一日という枠で僕をみないでほしい。僕は自分自身をそういう風にみていないから。時間は長いものとしてみるときと、短いものとしてみるときとがある。短いものとしてみるときは、そういう必要があってみるのだけれど、それ以外のときは、なるべく長いものとしてみたい。

時間の長さを決定していることはたくさんある。ほとんどが、普段は意識していない習慣。仕事で培われる常識が、時間の意識も形成する。お金と時間とが絡みあって。学校が身に染み付けた時間もある。時計や日の出入りをそのまま自然な時間としてみてしまうことも、ありえる。

自然な時間なんてない。長くみようとすれば時間はすぐに長くなる。とても簡単なことだ。僕は簡単なことを忘れないように書いているに過ぎない。時間は長く見たほうが良い。

急いてはことをしそんじる、というけど、「こと」だけでない、色々なことをしそんじる。 でも、急いでするべきことも沢山ある。でも、人は「こと」ではない。だから、人をみるときは、時間を長くしてみてほしい。今日の感情を今日発散させたり、今日言ったことを今日片付けたりする必要はない。貯めて、寝て、少しずつ重ねて、一番良いときに転換すればいいじゃん。