Tuesday, 21 October 2014

絵画の見方

最近、友人と議論をする機会があった。何かを知るときに、哲学や科学からでは知りえない知識を、芸術から知ることはできるのか? 友人がこの疑問を提示し、私がそれに答えることになった。

私は自分の答えを、コリングウッドの『芸術の原理』に書かれている内容に則して書いた。もちろん、この本の中の議論をそのまま要約したわけではない。しかし、私の答えは、かなりのところまで、この本を模していた。

それによれば、芸術が与える知識というのは次のようなものだ。私たちの精神は、はじめは純粋な感覚世界である。「感覚」というのは、非常に曖昧なものだ。例えば、感覚の例として「色」や「形」などを挙げる人もいるが(例えば、デイヴィット・ヒューム)、厳密に言うと、これらはすでに感覚ではなく、ヒュームの言う「観念」、あるいは、日本語でより自然な言い方としては「印象」である。印象は、感覚と違って、ある特徴を持っている。印象は、私たちがある感覚に注意を向けた結果生じる。「青」「銀」などの色は、はじめから私たちの精神の中に存在していたわけではないのだ。

さて、感覚の世界に浸かっている精神は、意識の働きによって、感覚を印象に変える。この変化を行うのは「注意力」という能力である。何かに注意を注ぐとき、「注意を注ぐ」行為には必ず何かしらの感情が伴っている。コリングウッドは、注意力と感情との関係を表現するために、「charge」 という語を使っている。これは、言い得て妙だと思う。印象と感情とがあり、この二つを結びつける「注意力」には、感覚と感情とがそれぞれ「チャージ」されている。

私たちは、自分が今感知している感覚を選ぶことはできない。感覚は、嫌でも押し寄せてくる。しかし、私たちの精神は、ある特定の感覚に注意力を注ぐ自由をもっている。そのため、印象の生成は、精神の自由な働きによる。このとき、注意力の働きが必要となるが、それはさらに感情によってチャージされている。

芸術作品とは、こうした注意力の働きの引き金となる感情がチャージされた印象のことなのである。芸術作品が表現すべきであり、現に作品によってはうまく表現している対象は、この感情なのだ。そのため、芸術作品は、注意力と感情との働きによって生じた印象をそのまま複製したものではない。鑑賞者は、作品をただ眺めただけでは、芸術家が表現しようとした感情を受け取ることができない。そのため、そもそも芸術家が作品として残した印象を受け取ることもできない。ただ作品を眺めてはいけない。そうではなく、鑑賞者は、芸術家がどのような問題と格闘した結果この作品にたどり着いたのか、その過程の一部始終を知っていなければならない。それは、作品から読み取れる部分もあるだろうし、事前に調べておかなければならない部分もあるだろう。

そうした努力の末、ある芸術作品の表現している印象を鑑賞者は受け取ることができる。もしその作品が優れた芸術家の手によるものであったならば、こうして受け取る印象も、この努力に見合うだけの優れた印象であるはずだ。

そうはいっても、芸術が与えてくれるこの「印象」は、まだ哲学や科学における「概念」ほど鮮明ではない。しかし、この印象は、私たちの感覚世界の中にたしかに存在する何かである。芸術がこの感覚を私たちの意識の前に引っ張り出してくれなければ、私たちは一生この感覚について意識することなく過ごすだろう。

哲学や科学は、芸術とは違い、感覚の世界からある感覚の流れを「印象」として取り出すことができない。代わりに、哲学や科学の役目は、すでに「印象」として存在するものごとを、思考や知性の働きによって自由に関係付けることである。そのため、「印象」なくしては、哲学や科学もありえない。つまり、芸術が仕事をしなければ、哲学や科学もまた仕事ができないのである。

...という内容を友人に伝えた。まだ相手から返事は来ていない。しかし、久しぶりに自分の考えを整理して文章にできたのは良かった。さらに、最近、近所の美術館でちょうど新しい展示が始まったところだ。ただ漠然と鑑賞に行くのではなくて、デュフィという人の直面した問いをまずは調べてから行こうという気になったし、これもただ漠然と調べて見に行くのではなく、かれがどのような感覚と格闘して、どのような感情を使ってどのような印象にたどり着いたのか、それを知るために見に行くのだ。