久しぶりに、優れた論文を読んだ。マット・S・ホイットの作品で、題は「ヘーゲルの倫理国家論における貧困の問題と自由の限界について」(原題:"The Problem of Poverty and the Limits of Freedom in Hegel's Theory of the Ethical State" by Matt S. Whitt。)
ヘーゲルの国家論は、近代の国家をコントロールしている概念を一通り網羅している。歴史の中で数百年もの間近代国家は生き延びてきた。また、資本主義によって社会が解体されていく中で、近代国家だけはなぜか存続している。それは、近代国家がもつ独特の概念が理由だ。
ホイットは、「賎民」が近代国家において果たす役割について論じている。まずホイットは、「ヘーゲルは貧困を失くす方法を提示しない」という批判をとりあげる。事実、ヘーゲルは国家が賎民を生むとは述べているが、賎民を失くす方法は提示していない。しかし、これはヘーゲルの個人的な問題なのではなく、近代国家そのものがもつ問題であるとホイットは論じる。
賎民は、市民社会に参加できない階級の人々である。ヘーゲルによれば、賎民は資本も職業も持たず、市民社会に受け容れてもらえるだけの品格も道徳観もない。かれらは、主観的にも客観的にも、社会にとっての部外者なのである。しかし、他方で、賎民は国民である。そのため、賎民は、社会の一部であるが、同時に社会の一部ではない、という、矛盾した立場にたたされている。
ホイットによれば、賎民のこうした矛盾した立場は、国家が国家として維持されるために必然的に必要なのである。国家は、他者を否定することで自らを確立するものである。国家が破壊される道は二通りある。第一に、他の国家によって、つまり自らの外部にいるものによって破壊される道がある。この道を否定するためには、国家は外部に他者を持たなければならない。これは、他の国家、他国である。他国と戦争をすること―これは、国家が外部と関係しつつ国家として存在するためには、避けては通れない出来事なのである。
さらに、国家は内部から破壊される可能性がある。これを防ぎつつ存続するためには、国家は自らの内部に、自らと根本的に異なる他者を持たなければならない。この矛盾した他者こそ「賎民」である―これが、ホイットの論点だ。
賎民の排除、すなわち貧困の解消―これこそ、国民が国家の内部でまとまるための究極目標なのである。貧困がなくなれば、国民が共有する目標もなくなり、近代国家そのものが脅かされる。「弱きものを助ける」という大義名分の下にまとまるのが近代国家なのである。
近代国家は、賎民のもつ矛盾を解消することができない。というのも、一方では、近代国家のもつ「貧困の撲滅」という目標は、真摯に追求されなければならない。これに手を抜いたり、これを不可能なものとしてしまっては、国家そのものが危うくなるのである。他方では、しかし、実際に貧困を撲滅することは許されない。そのため、国家とは、一方では貧困を失くすための素振りを見せつつ、他方では貧困が続くように行動する機関なのである。
ヘーゲルおよびホイットの論によれば、国家のもつこうした性格は、特定の個人によって意識されている必要はない。国家は、国家として機能する限り、国民が実際に何を思い考えていようが、上記のような構造をもつのである。つまり、賎民という矛盾を解消しようとしつつ持続させもするのが国家なのである。
もしホイットのこの考えに信憑性があるならば、賎民は国家にとっての数ある問題の内の一つなどではなく、国家の存在に必要不可欠な階級である、ということになる。すると、貧困に対する私たちの考え方も、「貧困はどうやったら撲滅できるのか」という漠然とした問いではなく、「貧困を必要とする国家の構造とは何なのか」という問いや、「この構造を解体するにはどうすればよいのか」「この構造に当て嵌まらないような反貧困活動は何なのか」といった問いへと進むことができる。