映画を観終わった後、知り合いの方と近くの喫茶店でこの作品について2時間弱話をした。
まず、この作品は、ネグレクトに対する偏見を一掃してくれるという点で非常に優れている。例えば、ネグレクトというと「シングルマザーの問題」と考えてしまいがちだが、この作品は主人公の母がシングルマザーになる以前から始まっている。そのため、ここではさらにさかのぼって、そもそもなぜこの母親はシングルマザーになってしまったのかをこの作品は鑑賞者に考えさせる。
さらに、「ネグレクトは育児を怠る怠惰な母親の問題」と、母親個人の感情や性格をネグレクトの原因としてしまう考えもある。しかし、この作品では、母親は勤勉で愛情に溢れる人物である。(実際、大阪の事件の母親も、子どもに手作りの離乳食を与えたり、布おむつを使ってあげたりしていたらしい。) つまり、ネグレクトとは母親の性格の問題ではないのだ。
では、ネグレクトとは何なのか。その原因とは何なのか。こうした問いを新鮮に突きつけてくるのが『子宮に沈める』という作品だ。
自分が思うに、この問いを考える鍵となるシーンは、父親が帰宅したときに、母親がセックスを迫るシーンである。このシーンは非常に短いが、唯一父親が登場するシーンである。母親が真面目な人物であったように、この父親も非常に真面目で、帰宅が遅いのも、恐らく仕事が忙しいからである。そこへ、自分の妻が半ばヒステリックな状態でセックスを迫ってくる。「私のこと、好き?」と訊いてくる。私がもしこのシーンで父親の立場にいたら、恐らくこの父親がとった行動と同じ行動をとったろう。つまり、妻を振り払い、途方に暮れて立ち尽くし、そそくさをその場を去っただろう。この父親には、妻の辛さを受け止めるだけの余裕がないのだから。
なぜこのシーンが鍵になるのか。妻は、久しぶりに会う夫に、セックスを求める。知り合いの方と話していて、お互い一番ひっかかったのはこの点である。というのも、例えば他の言葉をかけたり、あるいは一緒に散歩に行こうと言ったり、いくらでも他に手段はあったのではないか。なぜセックスなのか。
この状況下で、セックスを求めなければいけない、というところに、実はネグレクトの根本的な原因も隠されているような気がする。そもそも、この母親は、ここまでしっかり家庭を守ることができているのに、なぜ深い孤独を感じ続けているのか。そして、その孤独を乗り越える手段として、なぜ夫にセックスを求めるのか。
それは、「幸福であれ」という命令に妻が従っているから、そして、幸福を実感するための具体的な現象として、「快楽」が必要だから、ではないだろうか。
父親と夫とは、全く異なる。同じように、母親と妻とも全く異なる。妻とは、夫との関係の中で自分自身の幸福を追求する存在である(それは夫の場合も同様だ)。対して、母親とは、子どもとの関係の中において存在するが、子どもが自らに幸福を与えてくれなくても良いと思うのが母親(そして父親)である。あるいは、子どもが健全に生存することに満足をおぼえるのが母親である、ともいえる。
簡単に言うと、親とは、子どものために生きているのだ。そのため、自らの幸福を追求することがもう許されない。
こうした考えは当然反発を生む。「父親にも母親にも、幸福を追求する権利はあるはず。それができないから、ネグレクトは起きるのだ」という具合に。しかし、これは「母親」という役目と、人間として存在する母親とを混同している。人間には幸福を追求する権利があるが、母親という役目の中には、母親自身の幸福の追求という義務は含まれていない。
それにもかかわらず、母親であるこの主人公は、自らが一人の人間として「幸福」であらねばならないと感じている。なぜ彼女がそう感じるのかはまた別の問題だ。しかし、そう感じていることは間違いない。しかし、この感情は、母親の役目と明らかに矛盾する。母親にとって、自らが幸福になるかどうかは偶然が決めることであって、幸福でないからといって母親として失格であるということにはならないからだ。
自分が幸福であるかどうかを計る尺度として「快楽」が用いられるのは、現代の風潮である。
さて、では「幸福であれ」という命令は、どのようにして母親を追い込んでいくのか。すでに何度か述べたように、母親には自らの幸福よりも優先すべきことがあり、また自らの幸福は実現する必要がない。重要なのは、家族が健全に存続していくことなのである。しかし、「幸福であれ」という命令は、「幸福でない人生は生きる意味がない」という考えを生む。つまり、健全に存続していても、母親自身が幸福を感じていなければ、それには意味がない。そこで、母親は、自らが母親としての役目を良く果たしていても、そこに満足を感じることができない。
そこで、母親は「幸福」への道を進むために、夫にすがる。それも、セックスを求めるのである。妻にとって、幸福は快楽によって実感されるのだ。そして、その快楽を与えてくれるのは、セックスなのである。あるいは、夫からの「愛の表現」なのである。しかし、これはこうである必要がない。例えば、家族についての会話から「幸福」を得ることも可能だ。あるいは、「家では全てうまく行っています」「こちらも、仕事は順調です」というやりとりから幸福を感じることもできるだろう。しかし、幸福の尺度は「快楽」なのである。そして、快楽の強さとしては、こうした会話は弱い。また、特に後者の会話は、自分の幸福よりもさらに大切な別の生きがいを持っている人でないと行うことができない。
以上のような理由から、この作品においてはネグレクトの根本的原因が「幸福であれ」という命令だということができるように思う。この作品を観て思うことは他にもたくさんあるのだが、一番重要だと感じた考えはこれだ。
それなので、ネグレクトを失くすということは、「幸福であれ」という命令から自由になるための別の言語環境を整えるということだと思う。例えば、幸福よりも義務を優先しても良い、というような。特に闘うべき相手として、「幸福の追求は人間が自然に行うことである」という考えがある。幸福の追求には何も自然なところがない。これは社会的に、特にある言語環境において構築された考えなのである。
自らが幸福であるかどうか、という問いがあまり重要ではない文化あるいは言語環境も存在する。例えば、『赤毛のアン』のような作品で描かれるカナダ、あるいは『アンナ・カレーニナ』で描かれるロシアがそれである。父親や母親が親として存在できるような言語環境はとても大切だが、残念ながら、「幸福の追求」という命令(義務とすら言ってもよい)は年を重ねるごとに威力を増している。『子宮に沈める』は、この命令に対抗する必要性を強く感じさせてくれる映画でもあった。
追記: 2015年3月にこの映画のDVDが発売された。私はもう一度観たいと思う。が、しかし、すぐには観ることができない。それなりに気持ちに余裕があるときでないと観ることができない映画だ。
追記: 2015年3月にこの映画のDVDが発売された。私はもう一度観たいと思う。が、しかし、すぐには観ることができない。それなりに気持ちに余裕があるときでないと観ることができない映画だ。