プラトンの『饗宴』で、ソクラテスが愛についての理論を語る場面がある。ソクラテスによれば、愛には四つの段階がある。
- 肉体に対する愛
- 精神に対する愛
- 法に対する愛
- 善のイデアに対する愛
肉体に対する愛から精神に対する愛へと移る過程は、直感的にとらえやすい。ここでいう「肉体」とは、ある人が周りの人たちに直ちに与える印象も含んでいる。そのため、例えば「この人の雰囲気が好き」というような気持ちも「肉体に対する愛」に属する。
ここから「精神に対する愛」へと移るには、まず、肉体に対する愛が消化される必要がある。肉体や雰囲気がそのままの状態で魅力的な人ほど、精神への愛の対象となりにくい。それでも、付き合いが長ければ、いつかは相手の肉体や印象や雰囲気に対して幻滅するときが訪れる。しかし、その人は単にこの肉体、あるいはこの雰囲気だけではない。その人は精神の持ち主なのだ。精神とは、他者、あるいは自分と対立するものを否定し、この否定によって存在するものである。その人の肉体や雰囲気に対する幻滅は、私がそれを感じる遥か以前から、すでに相手によって感じられているのだ。その幻滅の感情を共有することで、肉体に対する愛は消化される。
精神に対する愛から法に対する愛への移行が、哲学の学生も含めて、多くの人を困惑させる段階だろう。肉体や精神はある一人の個人に属するのに対して、法や善のイデアはそうした個人を超えて存在するものだからだ。愛とは、そもそも個人に対する感情ではなかったのか。
法に対する愛とはそもそも何なのか。それが、僕にはかなり最近まで理解できなかった。最近になってようやくわかってきたのは、次のような考えだ。精神は、目の前に直ちに存在する物質的な現実を絶えず否定し、その否定によって存続する。ある一面では、精神は物質よりも抽象的であるといえるが、別の一面からは、物質よりも精神の方がより具体的であるといえる。というのも、物質的現実はこの一瞬、あるいはある一定の限られた期間存続するのに対して、精神的現実はある意味時間を越えて存在するからである。例えば、気心の知れた友人と久しぶりに会うとき、その友人は物質的には、肉体も雰囲気もずいぶん変わっているだろう。それでもその友人が以前の友人と同一人物である理由は、かれの精神が以前と同じだからである。つまり、私にとって気心の知れた友人とは、この肉体をもった人物ではなく、この肉体がなくても存続するような精神のことなのだ。すると、精神的なものは、肉体を超えて人々の記憶に残り続けることになる。では、精神を消化した先にある「法」とは何なのか。法とは、精神からその個性や偶然性を取り払った結果生じるのだと思う。例えば、さきほどの友人を例に考えてみる。その友人と以前時間を過ごしたことによって、私はある別の法則あるいは法に従って生きるようになっている。例えば、自分の肉体に気を使うようになったり、あるいはものごとをそれほど悩まなくなったり。こうした法則は、まずはその友人の精神がもつ力として存在していた。しかし、その友人の精神がこの場を去った今でも、私の生活の中にはまだこうした法則が残っている。意識してようとしてまいと、こうした法則に従っている限りにおいて、私はこの法則を「愛している」のだ。こういう意味において、法に対する愛は精神に対する愛の先に存在し、後者よりも一層深いのだ。また、肉体と精神の関係においても言えたことだが、精神と法を比べてみても、ある意味後者のほうが抽象的だが、やはり別の意味においては後者のほうがより具体的だ。というのも、私のある個人的な相手への愛が途絶えた後でも、その相手を介して私が愛するようになった法則への愛は到底途絶えないからである。
プラトンの愛の理論の各段階の具体性については、次のようなこともいえる。肉体に対する愛は、直接的であるだけに一番刺激が強いが、同時に最も手放すのが容易な感情であるといえる。精神に対する愛は、肉体よりも具体的で持続的なものへの感情であるだけに、手放すのがより難しい。しかしまた、精神への愛は肉体に対する愛が消化された先に芽生えるので、比較的穏やかで落ち着いた感情でもある。三つ目に、法に対する愛は、抽象的な穏やかさあるいは平穏だけではなく、私の生活の具体的な骨格を形作っている。そのため、法に対する愛は、よっぽどのことがない限り、そもそも意識にのぼることすらない。これほど具体的な感情は、手放すのもまた容易ではない。法則に対する愛を手放すということは、単にある個人とのつながりを断ち切るということではなく、ある普遍的なものと決別することだからである。往々にして、私の生活を形成する法則は、そこから意識的に逃れようとするさまざまな逃げ道をあらかじめ自分の一部として折り込み済みであることが多い。例えば、お金持ちになろうと思う感情と決別しようとしても、「代わり」の指針を決めるときに、ほぼ無意識のうちに「損得勘定」が働くだろう。お金というものに対する執着は手放したつもりでも、ものごとを損得でみるという法則は残る上、その法則に対する自分の愛も残る。法に対する愛とはそういうものなのだと思う。
では、最後の善のイデアに対する愛とはどういう感情なのか。これはまだ理解できないが、法に対する愛についての解釈は思いがけないタイミングでできたので、これについてもいつかは腑に落ちるときが来るだろう。