Wednesday, 5 November 2014

The Absoluteあるいはdas Absoluteをどう和訳すべきか

ヘーゲルの『論理学』の日本語メモを書き進めていると、私は和訳が非常に難しい言葉にしばしば遭遇する。『論理学』の英訳を読みつつ私はメモをとっている。英文はヘーゲルの思考の流れをしっかり捕まえているので、集中して読めば流れるように一気に読み進めることができる。ところが、メモをとっている途中でふと和訳に悩む箇所が登場すると、せっかくの滑らかな英文の流れが私の中で一時停止してしまう。このとき、直訳をあててメモを書くことも私にはできる。実際、最近はそのようにすることが多い。しかし、これには問題がいくつかある。まず、英語から日本語へと思考を移し変える作業が中途半端となってしまう。つまり、英語ではドンピシャの言葉で表現されている思考が、日本語では全くかみ合わない造語によって複製されてしまっているだけとなってしまう。次に、後でこのメモを読み返したとき、日本語にこだわらなかった箇所は私にはわかりにくいものとなってしまっている。最後に、直訳をしてしまうと、日本語の言葉のもつ広がりがその言葉に宿らない。

というわけで、和訳にこだわりたいのだが、それでは『論理学』を読む作業も一時停止してしまう。一つの言葉に30分くらい悩むこともザラで、これでは私は先へ進めない。 そこで、実際には妥協をする。ただ、どうしても妥協できないような言葉もいくつかある。「Das Absolute」はその内の一つだ。(他にも、setzenやReflexionやScheinやSeinやExistenzなどもある。) ヘーゲル翻訳家の間では、この語は「絶対者」と和訳するのが通例である。しかし、この和訳は、原語を忠実に汲みとれていないだけではなく、ヘーゲルのいわんとすることに対しても不適切な訳となってしまっている。

まず、Das Absoluteには人と物との区別がない。対して、「絶対者」と「者」をつけてしまうと、あたかも「物」とは異なる何かが「絶対」であるかのようになってしまう。さらに、ヘーゲルはDas Absoluteを思考形式、つまりカテゴリーとして提示している。(setzenは英語ではpositだが、日本語では「提示」でもいいかもしれない!) そのため、和訳の方にも、それ相応の抽象性が備わっていなければならない。しかし、「絶対者」という言葉には、誰か具体的な人物、あるいは神を指しているような具体性がある。これは、ヘーゲルの思考の内容と照らし合わせてみると、不適切な連想であると私は思う。

そのため、「絶対者」という通例の和訳は、見直される必要があると私は思う。では、どのような代替案がありえるか。まず、単純に「者」を取っ払ってしまい「絶対」と訳すのはどうか。これの問題点は、「絶対」は名詞ではないのに対して、das Absoluteは冠詞のおかげで明確に名詞であるということだ。そもそも、「者」がつけられた原因は、「絶対」という語を名詞形にせよという要請だろう。何も工夫せずに「絶対」と言ってしまっては、「絶対者」という和訳が解決しようとした問題と向き合わないことになる。

もう一つ、「絶対性」という訳し方はどうだろうか。こちらの方が、「絶対」そのものが名詞形で際立つので、余計な連想を生まないという点では「絶対者」という一語よりも優れているだろう。これの問題点は二点。まず、(そしてこれはこの一語に限らず、名詞を和訳するときの宿命的な問題点なのだが)the Absoluteは複数形にもできるのに対して、「絶対性」は複数ありえるようなものではない。少なくとも、私にはそのような気がする。(しかし、もしかしたら「~性」で終わる名詞にも、「~性ら」と複数にしても不自然ではないものもあるのかもしれない。) 二つ目に、das Absoluteは性質ではない。こちらの方が深刻な問題点である。というのも、「絶対性」というと、あたかもdas Absoluteの外に何か具体的なものが存在していて、そこに「絶対性」という性質が後付けされるような響きがある。あるいは、まず始めに具体的なものが存在していて、「絶対性」はそうしたものたちから抽出されたいわば二次的な観念である、という響きもある。いずれにしても問題なのは、「性」をつけることによって、一種の二次性がdas Absoluteに含まれてしまう点である。

「絶対者」「絶対性」「絶対」の三つのどれもうまくいかない。ではどうすれば良いのか。今のところ、アイデアが思い浮かばない。