「アプリオリ」という言葉をどう訳すべきか、大いに迷う。
中山元氏は、カントの『純粋理性批判』の新訳においては、そのまま「アプリオリ」とカタカナ表記している。他の候補として、「先験的」という訳し方も見たことがある。
哲学史を通して一貫した意味をもって使われてきた言葉ならば、「アプリオリ」とそのまま訳しても良いのかもしれない。しかし、実際、ライプニッツやカント、現代フランス思想などにおいて、この言葉は全然別の意味を与えられてきた。
また、作品ごとに意味が異なるからといって、アプリオリという語を訳し分ければそれで済むという話でもない。作品によっては、この言葉を使うことによって、哲学史そのものを参照しているかもしれない。
『哲学の方法について』においては、アプリオリという言葉は飾り程度の意味で使われ、カントへのオマージュが込められていた程度だったので、「ただ考えることによってのみ」という訳語をあてることができた。
しかし、『精神の鏡』においては、ギリシア科学からルネッサンス期までの広い哲学史における流れを表すキーワードとして、コリングウッドは「アプリオリ」という語を使っている。
ならば、妥協して「アプリオリ」とカタカナ表記すれば良いではないか、という声がする。そうなのかもしれない。それで済むのならば、それで良い。しかし、それでよいのか。「アプリオリ科学」などと言われて、あるいは「アプリオリなものとしての科学の理想像」などといわれて、読者は理解ができるだろうか。それとも、『精神の鏡』はライプニッツやカントやラッセルを読んでから読め、という本にすべきなのか。いや、そんな本にはしたくない。ライプニッツもカントも知らない人でも読めるようにしたい。それに、現に、コリングウッド自身、そういう一般読者に向けて書いている。著者の意図を汲むのが翻訳の第一前提なのだから、「アプリオリ」というカタカナ表記はいけない。しかし、である。哲学の専門家と、翻訳の専門家の声が両耳に入ってくる。しかし、勝手な訳語をあててしまえば、この作品は哲学史から切り離されてしまうではないか。読みやすさを重視するあまり、お前はそこまでしてしまうつもりか。それは愚行というものだ。おとなしくカタカナ表記をせよ、と。
悩むうちに、「純粋思想」という訳語が浮かんだ。これだ、と思った。というのも、哲学史において「純粋思想」という言葉は、アプリオリ性について何か述べているテキストに参照するには十分具体的だからだ。ライプニッツもカントも、プラトンでさえも、これならば文句はないだろう。しかし、異論はあるかもしれない。例えば、カントにおいては、アプリオリとは「普遍的かつ必然的」という意味で、いわば略語のようなものだから。しかし、略語ならば、略語として解釈されるので、「アプリオリ」とカタカナ表記する必要はあるのか。「純粋思想」は、『精神の鏡』の文脈においては、「普遍的かつ必然的」という意味も十分もちうるフレーズだ。だから、問題ない。よし、決まった。
...と思っていた矢先、「pure or a priori thought」という名詞フレーズにぶつかる。しかも、一度ではなく、何度も何度も。これは、かかる訳語を当てると、「純粋な、あるいは純粋思想的な思想」となってしまい、わけがわからなくなる。結局、「純粋な、あるいはアプリオリな思想」と訳した。
妥協である。しかし、これでおさまったわけではない。悩ましい。悩みは解消されない...