Wednesday, 11 February 2015

読書会と社会的弱者

音の似ている言葉を集めて、頭の中をほぐす遊びを駄洒落だと言って笑い捨ててしまったり、またもう少し高級なところでは、「それは外国人的な発想だ」と言って見下しながら感心するふりをするという矛盾した態度に出る人が多いのはなぜでしょう。そうすることによって、自分自身が母語と安全な関係にとどまろうとしているのでしょうか。ある社会で大人として認められるには、母語を透明にして、母語と自分の間には何の違和感もないのだというふりをし続けなければいけません。でもそれは、言葉と言葉のありきたりなつなげ方しかできないということでもあります。ありきたりでもいい、平凡な幸せならいい、と言う人もいるかもしれません。でも、今の世の中、ありきたりでは不幸になってしまうかもしれないのです。

たとえば「迷惑をかける」という表現が、ものすごい重圧感と圧倒的な罪悪感を持って釘のように日本語人の身体に刺さっているようです。こんな社会ですから生活保護を受けなければ生活できなくなった人はたくさんいると思いますが、役所では生活保護を出すまいとします。拒否するのではなく、自分からもらうのを諦めてもらうには、「それは人に迷惑をかけることだ」とほのめかしてやればいいのだそうです。すると「ああ、そうだ。人に迷惑をかけてはいけない。そのくらいなら自殺しよう」という発想になってしまう人さえいるのです。母語にあるいくつかの言い回しは不幸なことに個人の心に深く打ち込まれているのです。それをほぐして、取り出し、手にとって眺め、投げ上げて、見つめて、したたかに、明るく、生意気に、賢く、自由に思考しようとするひとつの道が言葉遊びだと思っています。

(中略)

生活保護課の窓口でひどい扱いを受けた瞬間にその人が言葉遊びを展開するのは無理かもしれません。弱者として直接被害を受けている瞬間と、言葉をひねって練って鍛えている瞬間とには常に時間的なずれがあるかもしれません。でもずれた時間を大きな風呂敷に包んで背中に背負ったのがわたしたち人間だとしたら、その荷物の中にはやはり、すりきれていない言語感覚が入っていなければ長い旅には耐えられません。これはわたしの移民としてのささやかな体験から言うのですが、社会的に弱い立場にある時こそ、遊び心がなければ生き残れないのです。

いつだったか日本のある町で文学の話をしてほしいと頼まれ、話しているうちにほとんど言葉遊びの話になったことがありますが、講演が終わると、来ていた人の中で、「自分は失業して今大変なのだ、言葉で遊んでいる暇などないのだ」という意見を言った人がいました。これは、言葉遊びなどは生活の心配のない階級の人間が暇だからやっている無駄な遊びで、自分たち労働者はまじめに働いて苦労しているんだ、それをリアリズムで描くのが文学ではないのか、という考え方です。でもわたしはそうではないと思うのです。

遊びが大切だと書きましたが、それは、遊びを通して大人の社会のルールを勉強することもできるから遊びは大切だと言うのではありません。わたしはむしろ、社会での競争を再現したようなゲームが苦手です。ドイツに来たての頃、友達の子供が「モノポリ」というゲームをやりたがって、つきあいながらうんざりしたのを覚えています。これはお金をためて、家を買ったり、投資したりしながら進んでいくサイコロゲームで、他の人の経済活動の邪魔をしたりもするわけです。最終目的は自分が一番儲かることで、そのために大切なのは、他の力が上昇してこないように押さえることです。そのようなことは現実の社会でたくさんの人たちがやっているのに、なぜ自分が自由な時間でわざわざゲームでそういう退屈なことをくりかえさなければならないのか不思議でした。

『ソウル―ベルリン玉突き書簡』62~65

3、4年ほど前に、バンクーバーにいた頃、ジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の読書会に参加させていただいていた時期があった。この読書会は5名ほどの中心メンバーと数人の外部者(私も含む)から成っている。参加者は1ヶ月に1回集まって、2ページずつウェイクを読む。

「母語にあるいくつかの言い回し」を「ほぐして、取り出し、手にとって眺め、投げ上げて、見つめて、したたかに、明るく、生意気に、賢く、自由に思考しようとする」―フィネガンズ・ウェイクほどこれを徹底的にさせてくれる本は少ない気がする。

事実、この読書会も、ウェイクを読むという以上のことは何もしない会だった。もちろん、ワインやチーズやオリーブなどは机の上に並ぶ。でも、音楽もかかっていないし、歩き回って世間話をするわけではない。(後述するが、そもそもそのような優雅なパーティーができるほど大きな部屋でこの読書会は行われていない。) ただ、一人一段落を順番に音読し、最初の段落に戻って一行ずつ感想を述べ合うだけだ。

集まって人たちの中には、ドイツ語ができる人もいたし、フランス語やイタリア語、ラテン語に詳しい人もいた。私は唯一日本語ができる参加者として、柳瀬尚紀氏の名訳の文庫版を片手に、文を日本語訳したらどうなるかを英語で他の参加者に説明する役目を担っていた。

この読書会のためだけにバンクーバーに移住する価値があると思う。なにせ、この会はジョイスがウェイクの執筆にかけた歳月と同じだけ続く予定だからである。つまり、少なくとも17年間は続く。

また、ジョイスの作品ほど、「社会的に弱い立場にある時こそ、遊び心がなければ生き残れない」と思っている人にふさわしい作品も少ないだろう。よく、労働者や社会的弱者は、自分たちの姿をリアルに描いて「くれる」作品を必要としている、などと考える人もいるようだ。しかし、これは間違っていると思う。うんざりするような俗っぽい空気を現実世界で吸わされ続けた後で、なぜ文学においても同じ空気を吸わなければならないのだろうか。それこそ「言葉遊びなどは生活の心配のない階級の人間が暇だからやっている無駄な遊び」という偏見を助長してしまうだろう。

ウェイク読書会のメンバーたちのほとんどは、語学の塾教師や家庭教師、あるいは古本屋の店員や深夜シフトで働くメカニックである。ようするに、かれらは労働者であり、裕福層に入ってはおらず、社会的弱者である。この集まりに生活保護受給者やホームレスなどが混ざってきても全く違和感はない。もちろん、やけくそな人物はお断りだろう―たとえば、ジョイスに全く興味がないのに、ワインが無料で飲めるからというだけで、なりふりかまわず入り込んでくる人などだ。そういう人の振る舞いは、しかし、むしろ裕福層の人々の方に顕著にみられるのではないだろうか。富を守るためには、様々な大義名分を掲げつつ、したたかに他の人たちの所有物を「無料で」奪っていく必要があるからだ。高級料亭で幹部会議を行い、飲食代を「経費」で落とす大人たちと、読書会にワイン目当てで割り込んでくるホームレスと、やっていることは本質的に同じなのだから。

読書会の会場は、中心メンバーの家の一室である。どの家も、とても狭い。そして、ボロ屋だ。猫の毛のにおいがする家もあれば、狭すぎて歩き回れない家もある。大家さんが住む大きな家の庭に建てられたはなれを借りている中心メンバーのカップルもいる。

しかし、こうした一見貧相なセッティングは、読書に集中するためにはかえってありがたい。ブルジョア的な快楽や気遣いなどは、読書の邪魔だ。

私は日本に戻ってきてから、新しい住まいの近所にある大学の学生に助けられつつ、一つだけ読書会を立ち上げた。ただし、そこに集まったメンバーたちからは、残念ながら、バンクーバーのウェイク読書会のメンバーから感じられたような真剣さは感じられなかった。具体的には、日本での読書会のメンバーたちからは、テキストへの純粋な興味が感じられなかったのだ。「この部分の意味はなんだろう」という問いを発しても、ありきたりな答えへとこの問いは吸い込まれてしまう。立ち止まって発想を巡らしてはいけないのだ、とでもいうような、早足で。

二つの読書会の本質的な違いはなんだったのだろうか。学生は勉強が仕事だから、大学での読書に加えてさらに読書会に参加する元気などないのだ、という意見はあるかもしれない。しかし、私もバンクーバーにいるときは学生だった。大学で課されるテキストの量も尋常ではなかった。それでも、ウェイク読書会の前には、これに備えて必ず予習をしたものだ。ましてや、他のメンバーたちはさらに厳しい環境で働いて食いつないでいる人たちである。時間のなさなど、さえない言い訳でしかない。

この違いを考えるためには、冒頭で引用した文章の中で多和田さんが紹介している言葉が参考になる―「自分は失業して今大変なのだ、言葉で遊んでいる暇などないのだ」。日本での読書会のメンバーたちは、自分にある役目を課し、その役目を全うするために必要なことはするが、その役目と直接関係のないことには熱中しない、という姿勢を少なからずとっていた気がする。対して、ウェイク読書会のメンバーたちは、個人としての自分に執着しない。つまり、社会的な役割は忘れて、テキスト優先でものを考えるという暗黙の了解がそこにはあった。

誤解のないように付記しておくと、私は日本での読書会での失敗が、日本の学生文化のせいである、と言っているわけではない。バンクーバーにいるときにも、有志で哲学の読書会をしたことがあるが、4ヶ月の読書会を3度行い、全て結局私を含めた2~3人を除いては誰も続けて参加してくれなかった。毎週、2時間ほどの集まりのあとは、近くのパブでビールを飲みつつ対話を継続するのが慣習だったが、このビール目当てにやってくる困った人も何人かいた。(しかし、何時間にも及ぶ哲学談義に耐えてまで数杯のビールを飲むのは損だと判断したのか、かれらは皆、再度現れることはなかったが。)

読書とは娯楽である、だから努力して謙虚に取り組むものではない、などと考える人もいるようだが、以上のような色々な読書会をみてきて思うのは、読書とはむしろ意識的な努力を要求するものだということだ。しかし、努力を要するといっても、それは労働の場合のような、あらかじめ決まった目的を達成するための努力ではない。自分ではなくまずテキストを中心に考える努力だが、考えた結果何か利益が生まれたか、とか、役に立つ能力を手に入れることができたか、とかいうことは問題にならない。ただ、テキストに真剣に向き合うだけである。しかし、これが思いのほか難しいらしい。

ウェイク読書会の参加者は社会的弱者だが、それはあくまで経済的な意味での「弱者」である。ジョイスのテキストについていくことができている、という点では、むしろ強者であると私は思う。多和田さんは、同じ本の18ページで、「日本でも「勝ち組、負け組」という子供言葉を使ってブルジョアジーになれたかなれなかったかを問題にすることが最近流行ったそうですね」と2007年に書いている。図書館と数名の友人さえいれば、誰でも読書はできる。その意味で、読書には、勝ち負けはあるかもしれないが、勝ち「組」や負け「組」は存在しない。読んだが勝ちなのだから。