Monday, 9 February 2015

哲学翻訳における正確さとは

長谷川宏氏と中山元氏は、「先生」と呼びたくなってしまうような、私個人にとっては師のような翻訳者である。「先生」という呼び方には、どこか馴れ馴れしいところがあるので、長谷川氏、中山氏、と書くが、それにしても、この二名の翻訳作品は、群を抜いて活き活きとしている。

ある文体が優れているか否かは、論理的、道徳的、あるいは政治的に決定できることではない。それはただ感性によって審美的に決定される。つまり、文体の優劣はただその美しさによって決まる。そして、美しさとは、純粋に表面的なものである。美は、感性によって受け取られる様々な印象の表面に宿る。

最近、中山氏の『純粋理性批判』和訳を改めて読み直したが、とにかく文章が流れるようで美しい。哲学の文体の優劣を決める要素の一つに、この「流れ」があると思う。つまり、言葉のゴツゴツとした感じに立ち止まりすぎずにいかに考えを進められるか、ということである。

中山氏の訳文の流れは、カントの文章とは思えないほど滑らかだ。例えば、第2巻の冒頭部。

わたしたちの認識は、心のうちにある二つの源泉から生まれる。第一の源泉は、心のうちで像を思い描く[直観する]能力である(これは印象を受容する能力、すなわち受容性である)。第二の源泉は、心に思い描いた像から、対象を認識する能力である(これは概念の自発性である)。第一の能力によってわたしたちに対象が与えられ、第二の能力によってこの対象が、心の中に描かれた像(すなわち心のうちのたんなる規定)との関係において思考されるのである。このように直観と概念が、わたしたちのすべての認識を構成する要素である。このため何らかの方法でそれに対応する直観をもたない概念だけでも、概念のない直感だけでも、認識を作りだすことはできない。

ところで直観も概念も、純粋なものであるか経験的なものであるかのどちらかである。像のうちに感覚を含むものは経験的なものとよばれ、感覚が混在しないものは純粋なものと呼ばれる(感覚が存在するということは、対象が実際に存在していることを想定するものである)。ここで感覚を、感覚器官による認識の<素材>と呼ぶことができる。だから純粋な直観は、何かを直観するために必要な<形式>だけを含むのであり、純粋な概念は、対象一般を思考するための<形式>だけを含む。アプリオリに可能であるのは、純粋な直観か純粋な概念だけである。これにたいして経験的な直観や経験的な概念は、アポステリオリにだけ可能である。 (17-18項、強調点は下線で代替した)

カントの原文はこちら。

Unsere Erkenntnis entspringt aus zwei Grundquellen des Gemüts, deren die erste ist, die Vorstellungen zu empfangen (die Rezeptivität der Eindrücke), die zweite das Vermögen, durch diese Vorstellungen einen Gegenstand zu erkennen (Spontaneität der Begriffe); durch die erstere wird uns ein Gegenstand gegeben, durch die zweite wird dieser im Verhältnis auf jene Vorstellung (als bloße Bestimmung des Gemüts) gedacht. Anschauung und Begriffe machen also die Elemente aller unserer Erkenntnis aus, so daß weder Begriffe, ohne ihnen auf einige Art korrespondierende Anschauung, noch Anschauung ohne Begriffe, ein Erkenntnis abgeben können. Beide sind entweder rein, oder empirisch. Empirisch, wenn Empfindung (die die wirkliche Gegenwart des Gegenstandes voraussetzt) darin enthalten ist: rein aber, wenn der Vorstellung keine Empfindung beigemischt ist. Man kann die letztere die Materie der sinnlichen Erkenntnis nennen. Daher enthält reine Anschauung lediglich die Form, unter welcher etwas angeschaut wird, und reiner Begriff allein die Form des Denkens eines Gegenstandes überhaupt. Nur allein reine Anschauungen oder Begriffe sind a priori möglich, empirische nur a posteriori.

さらに、ケンブリッジ版の英語訳はこちら。

Our cognition arises from two fundamental sources in the mind, the first of which is the reception of representations (the receptivity of impressions), the second the faculty for cognizing an object by means of these representations (spontaneity of concepts); through the former an object is given to us, through the latter it is thought in relation to that representation (as a mere determination of the mind). Intuition and concepts therefore constitute the elements of all our cognition, so that neither concepts without intuition corresponding to them in some way nor intuition without concepts can yield a cognition. Both are either pure or empirical. Empirical, if sensation (which presupposes the actual presence of the object) is contained therein; but pure if no sensation is mixed into the representation. One can call the latter the matter of sensible cognition. Thus pure intuition contains merely the form under which something is intuited, and pure concept only the form of thinking of an object in general. Only pure intuitions or concepts alone are possible a priori, empirical ones only a posteriori. (A50-51/B74-75)
ケンブリッジ版は逐語訳調であることで有名で、英米のカント学者たちの間ではこれを使用するのが常識となっている。改めて原文と英文とを見比べてみると、たしかにかなり逐語訳であることがわかる。

学者向けに訳すのならば、逐語訳の方が喜ばれるのは当然である。ドイツ語は読めないがカントはおさえておきたい、と考えている哲学者にとって、ドイツ語原文の語感を少しでも追体験することは非常に大切であり、意味不明にならなければ、読みづらくても逐語訳されている文章を読みたいだろう。

対して、一般読者にとっては、読みやすさも大切である。そればかりか、紛らわしい言葉遣いが多すぎると、議論の全体像が掴めなくなり、あるいは何か大変な誤解をしたまま読み進めてしまう可能性もある。こうした危険を回避するためには、流れるような文章が要求される。

中山氏の和訳は正にそのような流れる文章である。原文と見比べてみても、原文の意味を損ねない範囲で中山氏は自由に文章を編集しつつ和訳しているのがわかる。さらに、細かいところだが、例えば「経験的」ではなく「経験的な」というように「な」をつけたり、「もの」という単語をうまく駆使して文の流れをより滑らかにする、というような工夫が随所にみてとれる。これは大いに参考になる。

さて、こうして二つの翻訳を読み比べてみると、果たしてケンブリッジ版の方が中山版よりも本当に「正確」なのかという疑問が湧いてくる。一見すると、逐語訳の方が正確な翻訳であるのは当然のようにも思える。しかし、翻訳の正確さというのは、語数や語順、辞書的な単語や言い回しの訳の頻度によってのみ計れるものなのだろうか。

そもそも、そうした尺度を用いること自体が間違っているとしたらどうだろうか。 つまり、正確さとこれらの尺度との間には、本質的なつながりがなかったとしたら。

この問題を考えるためには、そもそも翻訳とは何のためにされるのか、という原点に立ち返る必要がある。翻訳とは、まずもって原文が読めない人のためにされるのである。つまり、原文が表現しようとしていることを、原文が読めない人へと伝えるのが翻訳文の役目である。

だとするならば、翻訳の「正確さ」は、原文が表現しようとしていることをどれだけ表現できているか、という点で計るべきだろう。すると、これは語数や語順などといった統計的な尺度によってではなく、もっと感性的な、審美的な判断によって決定されることになる。別な言い方をすれば、原文に「忠実な」訳文でも、読者がそれを読んでそれが表現しようとしていることを誤解したり、あるいはそもそも理解できなかったならば、それは訳文としては全く駄目なのである。

すると、正確な文には高い程度の読みやすさが求められることになる。つまり、読みやすい=内容が伝わりやすい、という意味であれば、翻訳文は原文の語数、語順、語彙選択などをそのまま写し取るべきではなく、原文のいわんとすることがわかりやすく伝わる文とならなければならない。

逐語訳は、原文の語彙や語順などをどう入れ替えるべきか、どう工夫して編集すべきかといった問いと向き合う必要がない。そのため、ある意味非常にラクである。ただし、逐語訳された作品は、往々にして非常に読みにくく、生粋の学者肌の読者ならばそれでも良いのだろうが、一般教養として哲学を読もうとする読者にとっては全く不親切なものなのである。むしろ、逐語訳というのは翻訳者の手抜きの言い訳に使われていはしまいか、などとすら思ってしまう。

対して、中山氏がつくるような訳文は、前述した問題と常に向き合い続けた結果生み出されるものなので、翻訳者にとっては大変な挑戦である。特に、意訳が行き過ぎた結果、原文の議論が捻じ曲げられてしまう危険があるが、訳者は常にこのリスクを念頭において慎重に編集をしていかなければいけない。他方で、逐語訳に「逃げる」誘惑とも戦い続け、常に翻訳語のほうでより自然に響くような言い回しを探し続けなければいけない。

こうしたギリギリの線をあえて貫こうとする中山氏のような翻訳者は、残念ながら日本の哲学翻訳の世界においてはまだまだ少数派である。それでも、中山氏のような存在が近年広く読まれ始めていることは、一読者として、非常に嬉しい。「読みやすさ」というような審美的な尺度が、哲学翻訳文の正確さを計る上での中心的尺度として通用するようになってほしいと思う。