読みやすい=すでに読み手が知っていることしか書いていない、ということならば、読みやすさは哲学の文章にとっては欠かせない。なぜなら、哲学とはすでに人が知っていることについての学問なので、「すでに私が知っていることがこの文章では語られている」と読み手に感じてもらうべきなのだから。
芸術家の行動は遊びである、とコリングウッドはいう。
遊びとは、正しさと誤り、利益と損失などといった問題には一切注意を向けず、ただ無責任に選ばれた目的を持つだけの意志によって何かをする、そんな行動形式(form of action)です。遊びの目的は、正しいものとして、便利なものとして、適切な、常識的な、あるいは規範的なものとして選ばれるのではなく、単にこうだと選ばれるだけなのです。これを望み、求めることが、これをしようとする理由です(Hoc volo, sic iubeo; sit pro ratione voluntas)。(III、§8)
そして、遊ぶ芸術家は、自己陶酔に浸るが、それはむしろ芸術の本来のあり方である、とも。
想像の世界は個人的な世界であり、それを作り出した作者のみが生きる世界なのです。作り手のこのような自己陶酔は、社会奉仕が崇拝の対象となっている昨今、一種のスキャンダルとなっています。そして、功利主義的な現代においての自分の存在意義である「功利」(their utility)を証明するべく、作り手たちは各々の作品の本質が、重要な、あるいは美しいメッセージの発信源であると必死にアピールしています。しかし、このような試みは必ず失敗に終わります。というのも、感性的体験(aesthetic experience)を実際にしたことのある芸術家ならば誰しも、この体験においては俗世間(the world of men and things)を忘れますし、自分の考えを伝えたり、それを受け止めてくれる聴衆を求めたりすることは、二の次のことであり、この体験とは別物であるということを知っています。(III、§3)
芸術家は聴衆を求めない。ミハイル・シーシキンは、処女作を執筆していたとき、「理想の読者」を自分の背後に作り出し、この読者の声に従っていたという。彼女が「それは完璧な一文だね」と言えば文はそのままにされ、「削除せよ、削除せよ」と繰り返せば文は消される。そうして出来上がった作品が『書道教室』だった。
芸術家が遊ぶとき、その目的は、目的なく想像を巡らせることだ。だから、聴衆によって想像の行く手が阻まれてはいけない。 かれの目的は、ただより遠くへ行くことだ。まだ誰もみたことのないところへと行くために遊ぶ。芸術は精神の開拓を引き受けている。
哲学の書き手は、こうした自己陶酔に浸ることが許されるのか。
哲学の題材となる「すでに知っていること」とは、まずはどのように知られるのか。それは、芸術によって知られる。しかし、芸術は、ある領域の存在を教えてくれはしても、その存在以上のことは教えてくれない。そして、単に存在しているだけのものは抽象的だ。哲学はこれを具体的なものとして記憶に残すためにある。
芸術を題材としている限り、哲学には自己陶酔は許されない。しかし、では、ヘーゲルの『論理学』は、文体の上では自己陶酔ではないのか。どうなのだろう。
『論理学』は難解だといわれるが、少なくとも翻訳はしやすい。ゲーテの『ファウスト』の方がよっぽど翻訳するのが難しい。まだみぬ場所へ言葉だけで行こうとするのが芸術なので、芸術的な文のほうが、より綿密で繊細な翻訳が要求される。読み手にも、そのような読書が要求される。ヘーゲルの文は、言葉に執着しすぎるとかえって読めなくなるような文だ。その意味では、文体の上ではかれは自己陶酔的ではない。ただ、哲学的には初めて人が足を踏み入れるような場所へと行ってしまったので、かれはそのような文体を用いただけだ。難解にみえる文体でも、芸術と哲学とでは根本的にそのもつ意味や性質が異なる。
Die Prosa des Philosophen ist schwer zu verstehen, während die des Künstler ist unverständlich.
「芸術家は、当り前のことを改めて繰り返してみせる」―こんなことを偶然にも読んでしまい、またわけがわからなくなる。そして、「ま」のところまで読み、『ふえふきおとこ』の主人公はマイケルだったのかと種明かしを受けて、単なるグリムの焼き増しではないということが納得できた。「マイケル病は水疱瘡のようなもので、流行ればほとんどの子がかかるけれども、必ず治るし、治れば免疫ができて、二度とかかることがない。ほんの一握りの例外を除いては。」 芸術は誰でもいっときは魅了されるものだが、そのうち想像の世界から人は足を踏み出すし、一度踏み出せば免疫ができているので、また純粋想像界へと引き込まれてしまうことはない、ただし一部の例外を除いて。
「芸術家は、当り前のことを改めて繰り返してみせる」―こんなことを偶然にも読んでしまい、またわけがわからなくなる。そして、「ま」のところまで読み、『ふえふきおとこ』の主人公はマイケルだったのかと種明かしを受けて、単なるグリムの焼き増しではないということが納得できた。「マイケル病は水疱瘡のようなもので、流行ればほとんどの子がかかるけれども、必ず治るし、治れば免疫ができて、二度とかかることがない。ほんの一握りの例外を除いては。」 芸術は誰でもいっときは魅了されるものだが、そのうち想像の世界から人は足を踏み出すし、一度踏み出せば免疫ができているので、また純粋想像界へと引き込まれてしまうことはない、ただし一部の例外を除いて。