Thursday, 8 October 2015

ウィリアムズ―『哲学の限界と倫理学』

バーナード・ウィリアムズは20世紀イギリスの哲学者。『哲学の限界と倫理学』(Ethics and the Limits of Philosophy)は1985年に初版が発行された。和訳は『生き方について哲学は何が言えるか』という邦題で1993年に産業図書より出版されている。(個人的に、これはとても優れた邦題だと思う。)

ウィリアムズはまず、倫理学(ethics)と道徳哲学(moral philosophy)を区別する。後者は前者の一分野である。つまり、倫理学の方がより多くの題材を研究する。そして、ウィリアムズは、道徳哲学は近代になって生み出された「独特の制度」(peculiar institution)であるという。「道徳」の概念を最もはっきりと、丁寧に展開したのはカントであり、カント的な道徳を最も厳しく的確に批判したのはヘーゲルである、とウィリアムズは述べる。

「道徳」とはどういう制度なのか。道徳は、道徳的な生き方こそ人間にとって最高の生き方である、と主張する。では、道徳的な生き方とは何なのか。それは、「責務を果たす」(fulfill one's obligations)生き方である。責務とは、具体的には「約束を守る」「他の人のために労力を惜しまない」「他の人を自分の道具のように扱うことはしない」といったルールである。

道徳の観点からすると、こうした責務のルールを破るためには、さらに別の、より重要度の高いルールに従って行動しなければいけない。例えば、友人との約束を破る必要が生まれたとき、その約束を破る理由として、「苦しんでいる人には手を貸すべきである」というような別のルールを挙げなければいけない、というわけだ。

ウィリアムズいわく、道徳という制度が袋小路に嵌まるのはここである。倫理学は人の生き方について理論を展開する学問だが、人生には責務以上に大切なものごとがたくさんある。道徳という制度は、これらのものごとを全て「二次的」で「どちらでもいいもの」にしてしまう。

さらにいえば、道徳は「この私」にとって大切だからこそ大切なものごとを人生に反映させる生き方を擁護できない。なぜなら、「この私」にとって大切だから大切なものごととは、つまり他の人にとってはどうでもいいかもしれないことなので、「責務」とは関係のないことだからである。(日本語では「責務」というと個人的なものごと―「これをしないと私の面子が保てない」というようなものごとだ―も含まれるように聞こえるが、英語のobligationには他者や共同体を自分よりも優先すべきという強い響きがあり、「私個人へのobligation」というような考えは浮かばない。だからこそ、道徳という制度のために「責務」という言葉が選ばれたわけである。)

道徳という制度の他にも、ウィリアムズは各章でそれぞれ個別の倫理学理論を批判する。本を読み終わって感じるのは、「過去の瓦礫が撤去された」という爽快感だ。アリストテレスの「幸福」(eudaimonia)に基づく倫理学、カントの道徳哲学、言語学的転回の後の「倫理的な言葉の意味をはっきりさせよう」というムーヴメント、相対主義、ロールズに代表される契約論、功利主義。これらすべてが、人生で人が通常大切だと感じる何かをそれぞれないがしろにしてしまっている。つまり、理論として限界があるのである。

こうして、ウィリアムズは、何か一つの概念を基礎に置いた倫理学理論というものを否定する。 倫理学のねらいは、ある一つのプログラムに従って生き方を構築することではない。

日本語の文脈では、「皆が一つの原理を守って生きる」というような考え方は流行っていないかもしれない。良くも悪くも「その場しのぎ」的に生きることが暗に善い生き方だという風潮があるように思う。対して、20世紀後半の英米では、一つの原理を皆が守るという考え方はかなり常識的だった。だからこそ、ウィリアムズの本のような作品はインパクトがあったはずだし、ウィリアムズ自身も、様々な倫理学理論を批判するためにはかなりの紙数を費やす必要があった。ちょうど、現代日本で「皆一つの原理を守って生きるべきだ」と本気で説こうとするようなものだ。興味本位で読む人たちは存在するかもしれないが、こうした説教に心から動かされる人はほとんどいないだろう。同じように、英米では、ウィリアムズのような考えへと人の心を動かすのは容易ではない。しかし、『哲学の限界』はそれをやってのけているように思う。

基礎を失っただけでなく、基礎を求めることそのものが倫理学にとってすべきでないこととなってしまった。では、倫理学は何をすべきなのか。ウィリアムズはいくつかの提案を作品中にちりばめている。

一つは、倫理的な知識の問題である。ウィリアムズいわく、倫理的な知識(つまり、生き方についての知識)は、自己反省(self-reflection)によって破壊されてしまう可能性がある。例えば、料理が上手な人でも、自分の料理の仕方を紙に書き出してみようとすれば、自分がどうやって料理をしていたのかがわからなくなってしまい、しまいには料理が以前のようにはできなくなってしまうかもしれない。自分のしていることについて問うことによって、そのことがもうできなくなってしまう、という現象はたくさん存在するだろう。そうはいっても、近代においては自己反省が人の生き方の隅々にまで浸透しているので、近代社会の一部として生きる人は自己反省のもつ破壊力から完全に自由ではありえない。自己反省がどのようにして倫理的な知識を変容させるのかを研究する―これが、ウィリアムズの一つ目の提案だ。

二つ目は、具体的な生き方(concrete forms of life)がどのようにして拡大しうるのかを考えることである。ウィリアムズはヘーゲルを引用しつつ、カントの道徳哲学を批判する。カントの問題点は、道徳的に生きる人の生き方があまりにも抽象的に、観念的に想像されていて、それを具体的に実行している人が存在しないという点である。つまり、道徳的な生き方とは空疎な幻想としての側面ももっているのである。対して、ヘーゲルはすでに存在する様々な「習俗規範」こそが人の生き方を決定するのだと言った。問題は、二つの異なる習俗規範がぶつかり合ったときに、どのようにして人々は自分の生き方を変えたり守ったりするのか、という点だ。ヘーゲルによれば、より自己意識の強い習俗規範が近代社会では生き残ってきたことになっている。これは史実としては概ね正しいが、個別のケースを考えるにはまだまだ詳細事項が足りない。習俗規範は他の共同体へとどのように拡大していくのか。この「拡大」という現象を、単なる侵略として以外に考える方法はあるのか。そうした思考方法の開発が、ウィリアムズが挙げる倫理学の二つ目の課題である。

国際関係がますます身近な問題になっている昨今では、以上のような問いは特に考えて深める価値があると思う。