Monday, 26 October 2015

精神病について思うこと

少し前に、『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』をざっくりと読んだことを今日思い出していた。精神科医が診断を行うときに参考にするマニュアルであり、現代社会において精神病がどのように理解されているのかを知る上で最良の出発点であると思う。

精神病というと一部のごく少数の人たちが抱える問題のように考えたがる人も多い。しかし、例えば『砂の女』の中で安倍公房がヒューモラスに述べているように、下手をすると人間は誰しも必ず少なくとも一つの精神疾患を抱えている可能性があるのである。

また、「精神病は少数の人たちの問題」という考えは、「少数派は何らかの精神病を必ず抱えているに違いない」というイデオロギーへといとも簡単に転化するし、むしろ前者は後者に基づいているともいえるかもしれない。この典型例は「アスペルガー症候群」の描写である。一見すると、アスペルガーとは「本当の」精神病であるかのような描写が行われるが、DSMを読み進めてゆくと、「あるいは、アスペルガー患者は少数派であるがゆえに社会生活が困難なだけかもしれない」という意味の付記がされている。著名な学者や芸術家などにも―例えば、アラン・チューリングのような―アスペルガーと診断されてもおかしくない人たちがたくさん存在する。もし少数派であるがゆえに、あるいは突出した才能を持ってしまったがゆえに、アスペルガーとして診断をされてしまうのだとすると、アスペルガー症候群を「病」と呼ぶことには疑問符がつきはしないだろうか。これについては後述する。

もう一つ、DSMに特徴的な点として、精神病を、社会的な立場の弱さと結びつけてしまう傾向もある。この典型は、DSM-5にて初めて病として認定された「反抗挑戦性障害」が挙げられるだろう。DSMの診断表をみるとわかるのだが、ある人がこの「障害」を持っているか否かは、基本的にその人が周りの言うことに従っているかどうか、また周りの人たちの価値判断を受け入れているかどうかによって決まる。つまり、自傷行為や不眠症など、身体的健康を害するような症状が一切みられなくても、ただ周囲の権力者の考えに賛同できないというだけで、障害者呼ばわりされる可能性があるのである。ここで重要な点は、権力者は弱者から「反抗挑戦性障害」の認定を受けることがありえない。定義上これは不可能だからである。

ここから、精神病という考え方のもつ問題点が二つみえてくる。まず第一に、少数派を疎外するイデオロギーとしてこの考えが機能してしまわないかという点。第二に、権力に対する批判や、権力関係を超えた人間関係の否定として、精神病というカテゴリーが乱用されはしないかという点である。

では、以上の二つの問題点をクリアするためにはどうすればよいのか。まず大切なことは、私たちは―特に、精神医学を専門的に勉強したことのないアマチュアは―精神病のカテゴリーを自分や他人に当て嵌めてはいけないということである。これはどれだけ強調しても足りないような大切な方針だ。「メンヘラ」というような言葉が軽々しく飛び交っているのは良くない―そもそも、冗談としてもあまり面白くない言葉だ。ましてや、多数派になじめない人たちや、自分の思うように考えたり行動したりしてくれない人たちに対して、「あなたは○○という精神病を患っています」などと言ってはいけない。(蛇足だが、人を精神病患者とみなすことによってものごとの解決を図ること自体を精神病として認定してみてはどうだろうか。精神病というカテゴリーの乱用を防ぐ上では有効だと思うのだが。)

また、「多数派対少数派」「権力者対弱者」という枠組みは、共同体の合意があるとき以外は用いるべきではない―これも大切な方針だと思う。例えば、夫婦関係を簡略化するために、「○○については私があなたの言うことを聞く(つまりあなたが権力者として振舞ってもよい)」という風に決めた場合は、権力者対弱者という枠組みで状況を捉えても良い。しかし、そうした合意がないのに、一方が他方に一方的にある枠組みを押し付けてしまってはいけない。そして、こうした枠組みを拒否する相手に向かって、「あなたは精神病なのでは?」という意味の言葉を投げかけてしまってはいけない。

精神病というカテゴリーを乱用するのではなく、教養を深めてより多くの人たちと関係できるようになればいい。相手が「極端」「おかしい」と思えてしまうのは、自分の興味関心の狭さの裏返しである場合も多いからだ。それに、その場にいる人たちが皆足並みをそろえて一緒に考え行動しなければいけない理由などもない。乗り越えられない誤解が存在していたとしても、肩の力を抜いてそれを気軽に面白がるようなドライ・ヒューモアがあればいい。