年末も近付き、まずは自分の身辺のことからと、カーテンなど洗濯をし、狭いアパートだが隅々まで水拭きをし、年越しに備えて買い物をし、そしてヘーゲルの『論理学』についてのメモを完了した。
理念の章は「生命」「認識」「絶対理念」の三部にわかれる。生命では、理念が個体となる。個体は自らの外、環境を自ら産出する。この環境と個体とが対立する。環境の中には、この個体を生成するために必要な物質が存在する。こうした物質を存在せしめているのもこの生命体である。こうして、生命体は繁殖し、死滅する。新しい個体を自らの環境の中から産出する生命は「類」である。
類はしかし、環境の外部にあるものごとを自らの一部としきれていない。ここに「類」の抽象性がある。類として存在する生命は、その外部と関わっている。生命体とその環境との全体としての生命が自らの外部と関わること―これが「認識」である。
認識には二種類ある。まず、真実の理念、理論である。理論では、外界がそのままの状態で類と対立する。類はこの外界をまずは「分析」し、受容する。つづいて、生命はこの外界を自らの内に理念的に再構成する。そのために必要となる手続きは「定義」「区分」「定理」である。理論はこうした手続きを踏んだ上で、外界を「証明」してみせる。しかし、この証明の出発点は「定義」であり、定義は外界から「与えられた」ものごとに依拠している。そのため、理論にはまだ抽象性あるいは偶然性が伴っている。
理論の外界への依拠を解消するのが、認識の二つ目の種類、善の理念、行動である。行動とは、定義を自ら産出することである。例えば、理論においては「平行線は交わらない」といった定義が「平行線そのもの」によって「与えられた」かのように存在するが、行動においては、「平行線は交わらない」という定義によって、平行線そのものがそのような規定をもって存在するようになるのである。
ただし、数学ではこうした「行動」は不可能である。というのも、数学は抽象的な科学であり、実存する理念のもつ具体性をもたないからである。そのため、さきほどの平行線の例はあまり良い例ではないかもしれない。行動の具体例としては、例えば商売における「売買」などの方が優れている。値段というのは売買の過程において決定するが、それはこの過程以前から定まっているわけではない。こうした意味で、行動は理論のもつ偶然性を解消し、理論における出発点が同時に理念によって産出されたものとするのである。
理論と行動とは理念の発展の二つの要素であり、互いに対立してはいるが純粋に区別されることはない。理論の対象となる規定はすでに行動によって産出されており、行動によって産出される規定はすでに理論によって認識されているのである。このような運動が「絶対理念」である。
絶対理念は、理論の出発点となっていた「外界」を抹消する力をもつ。具体的には、次のような運動をする。まず、理論は理念の規定として「AはBではない」という判断をくだす。これが第一の否定である。この否定によって、理念は具体的な内容を獲得する。つづいて、行動は「AはAではないものではない」という形で判断を解消する。これが第二の否定、否定の否定である。これによって、Aという規定は単独性を獲得し、あらゆる他者に対して絶対的に安定する。さらに、絶対理念は第三の否定を行う。「AはAではないものではなくない」という具合である。これによって、AはBからの区別による規定を失い、また何かの否定によって規定を得ることそれ自体もなくなるのである。これによって、Aは純粋な「出発点」となる。これが、絶対理念により出発点の産出である。
理念は出発点を産出することによってその役目を遂げる。もちろん、出発点は何度も産出されうるので、理念に適うだけの密度と主観性とを備えたものが登場するたびに新しい出発点が生まれるだろう。つまり、研究の対象となると同時に、この研究によって形成されうるような理念が登場するたびに、出発点は産出されるのである。
ヘーゲルの時代においては、論理学によって純粋理念が産出され、自然哲学によって自然の理念が産出された。また、マルクスは『資本論』によって資本の理念を産出し、新しい出発点を提示した。他にも、芸術の理念、神の理念、学問の理念、歴史の理念などが産出された。こうした理念はそれぞれ具体的な規定を持ちつつ、同時にある特定の過去にはひきずられずに自由に発展する思考形式の全体である。