Friday, 12 December 2014

無垢な概念から判断へ

『論理学』の「概念論」は「概念それ自体」と題された章で始まり、「絶対理念」の章で終わる。

概念それ自体とは、まだ概念のもつ諸規定が差別化されていない状態である。例えば、「国家」という概念があったとして、まだこの概念は「法律」「市民」「階級」などといった形式へと細分化されていない。そのため、この段階における概念は「無垢」と呼ぶことができると思う。

無垢な概念は、しかし、生成された思考形式であるという過去をもつ。その過去とは、「有」と「本質」の各思考形式である。「有」は、それ自体としては他者へと移行する単純態だった。例えば、「ある国」は「別の国」とは排他的に区別される。そのため、ひとつの国の領土や法律などが有効な限り、別の国のそれらは無効である。「本質」の思考形式は、逆に、他者に「投影」される、あるいは他者から「反映」されることによってのみ存在する「投影体」である。例えば、文化としての「その国らしさ」は、国民の活動―食事のとりかた、子どもの育て方など―に「投影」され、それらによって「反映」されている。「これがこの国の文化だ」と、ある存在(つまり「有」の形式)をとりあげて名指しすることはできない。概念とは、本質の各思考形式が同時に有としても成立している状態のことである。例えば、国家の概念は、「国らしさ」 であると同時に「ある国」でもある。国家の概念は単純にある国を取り出してみただけでは成立しない。例えば、アメリカを国家の概念そのものだと言うことはできない。同時に、国家とは、単なる投影としてのみ存在することもできない。「これが国だ」と直接名指しできる何かがなければ、「国らしさ」もまた存在しない。国家とは、「ある国」が同時に「国らしさ」の投影体でもあるような、そんな概念なのである。

こうした意味において、ヘーゲルは次のように述べている:「概念は、同時に普遍性、特定性、そして単独性をあわせもつ。概念においては、これら三つの規定が順を追って提示されることはなく、一つが提示されると、直ちに他の二つもまた提示される。」

普遍性とは、「国らしさ」のことである。しかし、概念における「国らしさ」は、もろもろの存在の中に投影されている場合のみ現実的である。そのため、普遍的な「国らしさ」は、同時に特定の「国らしさ」でもある。例えば、日本における人間関係のフォーマリズムなどは「日本らしさ」であり、これは特定の国らしさである。この「日本らしさ」が同時に「国らしさ」でもある。さらに、「日本らしさ」はそれ自体としてまた他の存在や本質を提示することができる。例えば、日本の学校教育における諸活動は、「日本らしさ」から派生したものとしてのみ成立している。そのため、 特定の国らしさは、それ自体が自立した普遍体として存在する。これがヘーゲルのいう「単独性」である。

概念において、普遍性と単独性とは激しく対立する。一方で、「国らしさ」は特定の国とは別の純粋な概念であろうとする。しかし、他方で、「日本」のような単独の国を通してでしか、「国らしさ」は現実を獲得することができない。「日本は国である」というような考えを通してのみ、「国らしさ」もまた現実に存在する概念となるのである。また、単独体である「日本」も、「国らしさ」をもつことによってでしか単独体でありえない。こうした意味において、「国らしさ」と「日本」とは同じ概念(国家の概念)の内部において対立する二つの規定である。一方は普遍性、他方は単独性であり、どちらも概念の全体たろうとする。つまり、国らしさの側からは、「日本らしさ」とは「国らしさ」を基準として定められるべきであるが、日本らしさの側からは、「国らしさ」が「日本」を通じて規定されるべきである。この緊張関係が、ヘーゲルのいう「判断」(Urteil)である。

判断においては、無垢な概念に潜在していた諸規定が現実の世界においてそれぞれ区別された状態で提示され、対立しあう。それでも、判断によって生じたこれらの諸規定は、もともと一つの概念がもつ諸規定なので、いずれはこの概念の内へと統一される。現実へとこうしてバラバラに拡散しつつ、概念へと収斂されていくわけだ。こうして、概念は現実化され、「理念」となる... という筋書きをヘーゲルは用意しているらしい。しかし、ことはこれほど単純ではなさそうだ。概念はダイナミックな思考形式で、「有」のもつ単純さや「本質」のもつ一方的な繊細さをあわせもってさらに複雑だ。

外はとても寒い。乾いた風が強く吹いている。少し窓を開けた。不思議とこの冬の風が暖かくすら感じる。風の音は好きだ。今夜はよく眠れそう。