Sunday, 14 December 2014

偽の自由と真の自由

カントは哲学史において初めて人間の自由を哲学の中心的主題に添えた。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルをはじめ、カントに反応した思想家たちもまた、同じ主題と闘った。かれらの仕事を読むと、人間にとっての真の自由と、私たちが今この社会に生きることによってたまたま思い込んでいる偽の自由との違いをみてとることができる。

偽の自由とは...
  • 「趣味の自由」―私は自分のやりたいことを趣味としてやってもよい。
  • 「職業選択の自由」―私は自分の職業を選ぶことができる。
  • 「住まいの選択の自由」―私は自分の住みたい場所を選ぶことができる。
  • 「性的自由」―私は異性あるいは同性の相手と自由に性的な関係を結ぶことができる。
  • 「投票の自由」―私は自分の選ぶ政党に投票することができる。

真の自由とは...
  • 「義務の自由」―私は私がすべきことを自分で自分に命令することができる。
  • 「考える自由」―私は私の理性を最大限行使することができる。
  • 「判断の自由」―私はあらゆるものごとを自分の理性に照らし合わせて判断してよい。

偽の自由に共通していることは、個人をその人の外にある何かに依存させる自由であるという点だ。例えば、「趣味の自由」の元には、お酒を飲む自由や、習い事をする自由などが含まれるだろう。すると、「この習い事をしたい」「お酒を飲みたい」などといった欲望を肯定することになり、「もうこの習い事ができない」「もうお酒が飲めない」などといった状態が受け容れ難いものになりえる。しかし、習い事やお酒などといったものは、主体である私にとって外的なものである。同様に、「住まい」「職業」「性」「投票」も、それぞれが私の外にある何かによって決定されているため、真の自由とはいえない。

対して、真の自由においては、私の外にあるものごとは私を支配したり限定したりすることがない。例えば、「義務」とは、ここではカント的な意味を持つ。そのため、例えば「結婚する」という義務は、私が私自身に課す義務であり、それは私の外にあるものごとには影響を受けない。あるいは、もっと抽象的なレベルで、「私は義務を果たす」という義務も、やはりその義務の内容が何かが関係ないので、私の意志以外によっては影響を受けない。

もっと厳密に言うならば、真の自由においては、自由の内容が意志されている時点においてその人は自由である。もちろん、例えば「結婚する」という意志は結婚相手がいなければ実現されえないし、「自分の義務を遂行する」という意志も、自分の義務がそもそも何なのかはっきりしていない個人にとっては実現不可能である。他方で、しかし「結婚する」とは結婚相手がいる状態を保つということであり、「義務」についても、ある義務を持ち続けるということである。そのため、たとえ有限な意志であっても、こうした意志をもつか否かは正に自由な個人としての「私」にかかっている。その意味で、こうした意志は「意志した時点で私を自由にする」のである。

...ということを、カントやヘーゲルはかなり具体的な文脈で論じた。