Monday, 15 December 2014

リベラリズム・選挙結果・プーチンの右腕

最近、苫野一徳という若い哲学研究者のブログを読む機会があった。1980年生まれと若く、また文章も読みやすい。その上、作家や他の哲学研究者たちと積極的に公開対談などのイベントも行っている。脳科学における茂木健一郎氏のような存在に、哲学の分野においてなってくれるのではないかとすら思ってしまう人物である。

苫野さんは今年の5月に「TED×Tokyo」でスピーチを行った。 このスピーチで、苫野さんは「哲学は役に立つ」という主張をした。具体的には、哲学は「信念の対立」を克服したり、「鬱を治したり」することができるらしい。どのようにそれが可能なのかといえば、苫野さんによると、それは二つの原理から可能になっている。一つ目は「欲望相関性」、二つ目は「相互承認」。

「欲望相関性」によれば、私が何か「信念」をもつとき、その信念をもつ理由は私の欲望によって説明できる。苫野さんの例によると、例えば「いじめ厳罰主義」を信じる人は過去にいじめられた経験があり、それによって「いじめをする人に復讐をしたい」という欲望を持っているかもしれない。対して、「やりなおし主義」を信じる人は、過去に誰かをいじめていた経験があり、いじめっ子である自分にやりなおしの機会を与えてくれた指導者をもっていたかもしれない。そのため、「いじめをする側にもやりなおしの機会を与えたい」という欲望を持っており、このような信念をもつに至ったのだろう。こんな風にして、人のもつ信念は、その人の個人的な体験やそれから生じる個人的な(あるいは主観的な)欲望へと還元される(あるいは、少し悪い言い方をしてしまえば、「すりかえられる」。)

「相互承認」によれば、私たちは信念が対立しあうときでも、まずは自分とは異質な信念をもつ相手を「承認」すべきである、ということになる。ただし、これは条件付きだ。苫野さんはここに、「人を傷つけない限り」とりあえずは認め合う」と付言している。つまり、他の人を「傷つける」可能性のある信念は、そのまま認めてしまってはいけないというわけである。こう言い添えた上で、苫野さんは、「この原理は民主主義の根本にある」と言う。苫野さんのスピーチはこの辺りで完結する。

このスピーチは、リベラリズムの考え方をとてもわかりやすく提示している。あらゆる信念を個人の「欲望」に置き換え、個人同士を「相互承認」させることで実質的に無力にする―リベラリズム的な支配とはこういうものだ。

たしかに、「人を傷つけない」信念に関しては、そのまま「承認」することもできるだろうし、それが無難だろう。しかし、そのような信念はそもそも「承認」される必要もない。承認される必要のある信念とは、必然的に他人を「傷つける」可能性をもっている。例えば、「いじめ厳罰主義」「やりなおし主義」は、どちらも人を傷つける可能性を持っている。具体的には、前者はいじめっ子やそのいじめっ子に厳罰を加える人々を、後者はいじめられっ子ややりなおしの機会をつくる教員たちを。

すると、どちらの主義を「承認」するかは、単なる「欲望」の問題ではなくなる。しかし、リベラルな考え方は、この点から眼をそらすための言い訳としても機能しうる。例えば、「やりなおし主義」を唱える人は、本当に自分の立場が善いと信じており、信じているだけではなく経験的にもそれを感じており、また自分の経験などという狭い尺度ではなく、ちゃんと色々な調査をした上でこの結論に論理的に辿りついたはずなのである。「いじめ厳罰主義」を唱える人も、それは同じだ。すると、それぞれの「信念」を唱える人の個人的な経験や欲望は、この議論には関係がない。この対立はあくまで論理的に解決されるべきであり、議論を行うべきは専門家である。

さて、「いじめ問題」の例では、厳罰主義とやりなおし主義のどちらがいじめを抑制できるのかを実証的に調べることができる。(つまり、全国調査をして統計をとったり、教員や生徒にインタビューをするなどして。) しかし、実証的には解決できない問題もたくさん存在する。

例えば、「今回の衆議院選挙は何だったのか」という疑問に対しては、さまざまな主義主張があるだろう。また、「そもそも衆議院選挙とは何なのか」という疑問に対しても同様である。しかし、こうした疑問は、過去に行われた衆議院選挙を観察しただけでは解決することが到底できない。それでも、こうした疑問は解決されるべきである。では、どうすれば良いのか。

選挙結果をみて、色々な信念を抱く人がいる。かれらの信念を「承認」すれば、それで良いのか。その程度の信念なのであれば、さきほども述べたように、そもそも承認する必要がない。個人的な空想にすぎないからである。承認するに足る信念とは、何の理由もなく承認してしまってはいけない。しかし、選挙に関する哲学的理論は、実証的に裏付けることができない。では、どう裏付ければ良いのか。その理論に使われているカテゴリー(思考形式)が果たして演繹されたものなのか、それとも無根拠なものなのかを問う、という方法がある。ここではしかし、この方法にはこれ以上深入りしない。

リベラルな考え方に対して、ロシアは対立している。プーチンの右腕の理論家に、アレクサンダー・ドゥーギンという人物がいる。ドゥーギンの政治思想がどのようにリベラリズムと対立するのかを、マイケル・ミラーマンが説明している動画がある。

ミラーマンによれば、リベラリズムにおける「相互承認」とは、リベラリズム的な形而上学(あるいは「世界観」)を暗に強要している。具体的には、あらゆる問題を「個人の選択の自由」に置き換え、「資本主義」や「議会民主制」などといった制度への批判は許さないのである。また、「宗教」や「教育」、「家族」などについても、伝統的な価値観をリベラリズムは暗に壊す。これも、「個人の選択の自由」という考えが壊すのである。

これに対して、ドゥーギンはロシアに「ユーラシアニズム」という思想を見出す。これによれば、ロシアは個人ではなく共同体のレベルで人々が信念を持つことができるようにすべきである。例えば、「一夫多妻制」を重んじている共同体は、この信念が持続されるような領土と経済状況とを確保されるべきである。あるいは、「ロシア正教会」も、礼拝などの儀式を行えるような環境(教会や休日など)を保証されるべきである。これらは、単なる「個人の選択の自由」の問題ではないからである。

こうしたロシアをつくるためには、ドゥーギンいわく、現在のロシアの影響力を広め、「ユーラシア」を構想(あるいは奪還)する必要がある。ロシアは元々アジアとヨーロッパとにまたがる広大な領土をもつ国家だった。それが、シノソヴィエト連邦の崩壊後、領土が急速に縮まってしまった。これは、1000年の歴史の中でも初めての事態である。ロシアが「ユーラシア」をどのように実現するつもりなのか(占領によるのか、国連のような形なのか)について、ミラーマンもドゥーギンも具体的なことを言っていない。

さて、「ユーラシアニズム」は、「リベラリズム」とは明らかに対立する考えである。これを「承認」するためには、例えば「自由とは個人の選択の自由である」といったような考えを放棄しなければならない。具体的には、ウクライナのような国家は、リベラルとなるかユーラシアンとなるか決断を迫られるのである。ここでは、「相互承認」といった考えは全く無力なものとなる。

さらに、これはドゥーギンやプーチンの個人的な過去や経験、欲望に置き換えて議論できる問題でもない。極端な話、かれらが皆躁鬱にかかって機能不全に陥ったとしても、リベラリズムかユーラシアニズムかといった議論は続くし、色々な国家に属する数多くの市民がこれに深い影響を受けることになる。(例えば、宗教、家族、仕事をどうするのかといったことだ。)

こうしてみてみると、リベラリズムは、より大きな対立の一項目である。リベラリズムとユーラシアニズムの対立は、その全体もまた二つ存在する。つまり、リベラルな視点からみたこの対立と、ユーラシアンな対立からみたそれとである。全体としても対立しあい、二つの全体像の内部においてもそれぞれ対立している―これが政治思想の対立の構図である。

ヘーゲルはこうした複雑な対立の構図を丁寧に描くことに専念した。現代においても、優れた政治哲学者はそのような仕事をしている。ドゥーギンはその一人である。哲学を学ぶことによって鬱が治るのは素晴らしいことだが、哲学が「役に立つ」かどうかはそうした個人への効力で議論すべき問題ではない。哲学の意義は、信念の対立の構図を描くことである。そして、対立する信念の内、どちらがより優れた信念なのかを論理的に決定することである。「みんなちがってみんないい」という立場は、あくまでリベラリズムの一方的な考えなのであり、哲学の根本原理には到底なりえない。

(今回の衆議院選挙は、小泉純一郎の劇場政治よろしく茶番であった。具体的な論点がないのである。安倍首相は、「消費税増税を先送りするという決断をしたが、それが公約違反なので、国民に改めて信を問う」という大義名分を掲げてはいるが、実際は自分の内閣や自民党の政治を延命しつつ改めて正当化するために選挙をしたのである。私は、一部で声高に叫ばれているほどに今の政権に危機感を持っていない。持つ必要がないからである。安倍内閣は小泉内閣と同じ「劇場政治」であり、実質がない。たしかに、雇用率の問題やワーキングプアの問題、過労の問題、家族崩壊の問題や教育の問題など、山積している問題は全く解決・解消されずにいるだろう。しかし、それは野党が政権をとったとしても同じなのである。重要なのは、「今の政治がそのような問題を解決してくれる」という考えを幻想として捨てることである。政治には、こうした問題を解決する力はないし、その力がないということを批判するのも筋違いである。そのため、自民党・公明党の圧勝という選挙結果は、むしろ反動的な野党政治が出てくる可能性をつぶしてくれたという意味では良かったと思う。もちろん、これが「私たちが日本の経済を立て直します」「私たちが教育を再生します」といった動きに本格的になってしまっては一大事なのだが。劇場政治は、あくまで劇場にとどまるべきなのである。)