Sunday, 28 December 2014

思想の科学とひとびとの哲学

鶴見俊輔をはじめとするメンバーによって展開された運動に「思想の科学」および「ひとびとの哲学」がある。今年の7月に、この思想の科学についてNHKでドキュメンタリーが放映された。このドキュメンタリーや『共同研究・転向』からみえてくるこの運動の原理は次のようなものである。

  • 思想は使うものである
  • 日本を戦争に導いた政治体制を批判しなければならない
  • なぜ戦前・戦中の知識人たちは公の場で戦争反対ができなかったのかを解明する
  • 人民の「ふつうの言葉」によって戦争を批判し平和を追求できるようにする
  • 戦後の「芯」となる思想をつくる

こうしてまとめてみると、思想の科学やひとびとの哲学は、政治運動ではあっても哲学ではない。哲学とはいえない理由は主に三つある。

  1. 著作物の内容が「貝殻的人間」などといったいわゆる感覚的な表現と、「転向」といった政治的表現とによって占められている
  2. 戦争のありのままを描くという作業と戦時中の体制や知識人、民衆を問いただすという作業とが混同されている
  3. 平和を築くという政治的な意図が著作物の内容をあらかじめ決定している
NHKのドキュメンタリーを観ると、「~べきだ」「~を感じた」という言い方が頻出する。ここから、規範意識と感覚とが思想の科学の支配的な位置を占めているのがわかる。例えば、「人民が哲学者になるべきだと思った」というような言い方がそれだ。

なぜ感覚や規範意識は哲学の妨げになるのか。

ヘーゲルの言を借りると、哲学とは「ある時代を思想によって表現すること」である。思想とは、比喩や政治や規範などにも暗に含まれてはいるが、そういった形式では純粋には表現されえない。思想とはそうした感覚的・規範的・政治的な側面を排除した言葉によって表現されるからである。

例えば、「あの知識人は転向すべきではなかった」という言い方は、「知識人は思想と行動とが矛盾してはならない」という道徳規範を含む。「民衆は貝殻的人間だった」という言い方は「貝殻」という具体的なイメージを含む。含むだけではなく、そうした規範やイメージを抜きにしては無意味となってしまう。しかし、例えば「知識人は自分の行動がどうであれ真実や理想を説くべきだ」と言ってみることも可能である。ここにも道徳規範が含まれる。そして、この道徳規範からは、「あの知識人は転向してもよかった」という結論が導かれるだけでなく、そもそも「転向」などというものは思想的意味をもつのか、という疑問すら導かれる。また、「貝殻」の代わりに「火の玉」を使えば、戦争を肯定する人間像を容易に描くことができる。いずれの場合でも、あらかじめある規範やイメージに従っている状態でしかその思想を理解することも真実として認めることもできない。しかし、これでは何の証明にも推論にもならない。よって、感覚や規範は哲学にはふさわしくないのである。

また、「人民が哲学者になるべきだ」という規範意識も疑問である。戦争に反対する必要性と、哲学者になる必要性とは結びつかない。もちろん、哲学者の中には戦争反対をするだけの勇気を持っているひともいるだろうし、逆に戦争反対をする個人の中には哲学者もいるかもしれない。しかし、哲学者であることと戦争に反対することとの間には、非常にゆるいつながりしかないのである。

というのも、戦争に賛成か反対かといった問題は、哲学者にとっては大切ではないからである。哲学者にとって重要なのは、天皇制を敷く憲法国家が戦争をするのはなぜかという問いである。戦争は実際に起こった。人々は戦争をした。それはなぜなのか。このことを、全く抽象的な立場から思想によって表現するのが哲学者である。

哲学者になるのは容易ではない。というのも、哲学者とは、科学や常識の自明性を捨てるからである。例えば、戦争の一要因として個人の責任をあげるにしても、哲学者は「もしこの個人が違う決断をしていれば戦争は防げていた」というような個人主義に凝り固まってはいけないのである。逆に、「このような社会制度さえあれば戦争は防げていた」「このような文化的風習のせいで戦争が起こった」というような説明も、それなりに真実ではあっても自明のもの、十分なものとしては認めることができない。「近代国家とは何なのか」「なぜ近代国家は戦争をするのか」という根本的な問題から始めるのが哲学であり、日本の体制や文化、指導者たちをベースに戦争を研究するのは心理学、社会学、あるいは政治科学である。

思うに、人民は哲学者になる必要がない。つまり、あらゆる学問を修め、それによって時代の全容をとらえ、その全容を思想によって表現するという作業をする必要がない。しかし、哲学を一般教養としてある程度修めること、哲学の門戸をより多くの人に開くということは重要だと思う。そのために、なるべくわかりやすい言葉で思想を表現するということは大切である。そうはいっても、感覚的イメージや規範意識などに訴えかける言葉は、哲学にはふさわしくない。そのため、哲学とは必然的に大衆受けしない学問となってしまうのである。あるいは、大衆受けする「哲学」として出回っているものはどこかで美意識や規範意識などに一方的にうったえかけているためいかがわしい。

「思想の科学」の出版物の中には、民俗学や社会学、政治科学と呼ぶにふさわしいテキストがたくさん含まれている一方、論理学や自然哲学、政治哲学といった純粋な哲学思想がほとんど見当たらない。

この運動の政治的な意図は立派なものである。また、ここに投稿した書き手たちは皆それぞれ非常に深く自分の題材を研究し、「お守り言葉」ではない言葉によって研究成果を書き残している。 こうした意味で、思想の科学は非常に有益な運動である。

ただし、哲学とはそうした政治的意図をもっており、イメージや感覚に頼った言葉によって展開しても良いのだ、という立場を暗に表明している点では、思想の科学には問題がある。恐らく、この運動のメンバーたちは、「思想によって時代を表現したい」と感じていたとは思う。しかし、実際にかれらが出版した作品群の中には、この感情が十分に反映されていない。なぜ日本は戦争をし、戦争によって日本はどのような国家となったのか―この問いが哲学的な意味をもつ限り、これはまだ未解決なようである。