Thursday, 18 December 2014

学校に行く理由

学校という概念があるとしたら、それはどのような概念だろうか。

学校を最も簡潔に定義するとしたら、「学校とは学ぶ場所である」となるだろう。しかし、この定義は昨今の学校の実態とかみ合っていない。

思うに、本当に生徒が学ぶ場所は、塾や友人の家や図書館や喫茶店や電車の中などである。学校とは、生徒にとっての職場である。つまり、生徒は学校で「業績」ならぬ「成績」を修めることを求められる。失敗や寄り道は許されてはいるが、その代償として自分の評価が下がり、それが将来の不利益につながることもある。ちょうど職場で職務をこなせない社員が減給になったりクビになったりするのと同じように、学校という場所で結果を残せなかった生徒は低い成績をつけられたり留年したりする。

このように、学校は「自由に学ぶ場所」ではない。学校で学ぶこともあるが、それはあくまで二次的な副産物である。極端な話、学校で何も新しいことを学ぶことができなくても、完璧に生徒としての義務を果たせばそれで良いのである。

自由に学ぶとは、ではどういうことなのか。それは、失敗が忘れられるような環境で学ぶことである。例えば、数学を学ぶときに、三角比が苦手な生徒がいるとする。この生徒は、どんなに頑張っても、三角比の相互関係を使った問題が解けない。学校では、これができないということがテストの結果という形で(大袈裟な話)一生記録に残る。高校の通知表を見れば、「ああ、この生徒はここでつまづいたんだな」と誰でもわかるようになる。生徒もそのことは重々承知しているので、三角比の相互関係を使った問題を解く意欲は無くなるだろう。というのも、そこで足踏みをしたり大失敗をしたりするのは、生徒にとって「不利」に働くからである。

対して、塾では学校の成績表のように生徒の成果が記録に残らない。もちろん、塾の記録には残るが、塾の記録は生徒の将来にほとんど影響を及ぼさない。そのため、生徒はテストであらゆる失敗をすることができるし、全く理解できない単元で足踏みすることが許される。これが、自由に学ぶということの大切な一要素である。

教える側にとっては、この「自由に学ぶ」段階で最も腕が試される。教師は、生徒を単に評価する立場から、生徒の悩みを聴いて生徒にとって必要なことをする立場へと、立場を変える必要がある。これがけっこう難しい。例えば、「この生徒は三角比の相互関係でつまづいている」ことは簡単にわかるし、それを生徒に言うのも簡単だ。しかし、「なぜこの生徒はここでつまづいているのか」「この生徒はどのようにつまづいているのか」という問いに瞬時に答えるのは難しい。この生徒は何かを勘違いしているか、あるいはある「思考の悪癖」を持ってしまっている。この「悪癖」は何なのか、それはどのようにすれば乗り越えられるのか。

昔数学が苦手だった人の方が数学を教えるのが上手、といわれる所以はこのあたりにあるのだろう。

もちろん、これは生徒と「等身大の目線に立つ」などという意味ではない。教師は生徒と等身大になってしまっては良くない。教師は常に生徒よりも上である。よく、「私は生徒から多くのことを教わっている」と口にする教師の姿を眼にするが、生徒たちにはそれを言うなと思ってしまう。教師は実際に生徒よりも上であり、かつ生徒から「自分よりも上」とみられることによってでしか良い仕事ができない。それを、生徒に「僕は君たちから学んでいる、これは学び合いだ」などと言ってしまっては、こうした立場の違いがないもののようになってしまう。

とにかく、学校は「学ぶ場所」というよりはむしろ「結果を残すべき場所」になっているのが現状だろう。 これが良いのか悪いのかは、学校の概念とは何なのかを考えた先にわかるはず。