デヴィッド・ミッチェルの『雲の地図』の中の「ソンミ451の祈り」にしてもそうなのだが、読んでいて心に刺さるような近未来小説は、近未来という体をとってその実現在について描いているのではないか。
そういう小説は、読み始めのときは小説世界と今の自分の現実世界との間に距離があるかのように錯覚しているので、気楽に読み始められる。そして、読んでいくうちに不気味な気持ちになる。読み終わると、真実を知ったときに特有のあの恍惚感と虚無感とが同時に押し寄せてくる。
多和田葉子の『献灯使』はそういった小説だ。この作品を読むことによってでしか呼び起こすことのできないような感覚をこの作品は読者の、私の心の中に作り出した。そして、普遍的な作品のご他聞に漏れず、こうして産出された感覚は一時のものとしては消え去らず、むしろ心の土壌を化学変化によって根本的に変質させてしまうように、巻き戻し不可能な影響を私に与えた。
小説の舞台は、原発事故によって不可逆的な被害を受けた日本である。以前も書いたように、この話は元々「不死の島」という短篇が素描した世界を受け継いでいる。ただし、「不死の島」があくまで島の状況の客観的な描写に重きを置いていたのに対して、『献灯使』はその島に住む人々の主観性あるいは精神にも深く入り込んでいく。
主観性あるいは精神は、作品が普遍的たる必要条件である。「不死の島」がどこか歯切れのわるい、煮え切らない終わり方をしているのに対して、『献灯使』が生き物が成熟するように最後まで育ちきって独り立ちするのは、この辺りに理由がある。
『献灯使』は、「鎖国」(そして焦土化)以前の日本を知る世代、義郎の世代と、それ以後に新たに生まれてきた無名の世代との間にある溝を基盤にして進む小説である。例えば、次のような部分に、この溝と向き合うために必要なイメージを得ることができる。
「飲む」という行為も無名にとっては楽ではない。無名は黒目を回転させながら喉のエレベーターを必死で上下させ、液体が下へ送り込まれていくように努力する。液体が逆流してきて喉が焼けることがある。それを押し戻そうとして気管に入り、激しい咳き込みが始まることもある。一度咳き込み始めるとそれがなかなか止まらない。特にこの小説が現在を描き出していると感じられる部分もいくつか引用する。
「無名、平気か、苦しいか。息できるか」
と義郎は自分の方が目に涙を浮かべながら、無名の背中を軽く叩いたり、頭を腕で巻いて胸に押しつけたりしている。無名は苦しそうに見えながら、どこか平然としている。まるで海が嵐を迎えるように無抵抗に、咳の発作が通り過ぎるのを待っている。
そのうち咳がやむと、無名は何事もなかったかのような顔をして、再びジュースを飲み始める。義郎の顔を見ると無名は驚いたように、
「曾おじいちゃん、大丈夫?」
と訊く。無名には、「苦しむ」という言葉の意味が理解できないようで、咳が出れば咳をし、食べ物が食道を上昇してくれば吐くというだけだった。もちろん痛みはあるが、それは義郎が知っているような「なぜ自分だけがこんなにつらい思いをしなければならないのか」という泣き言を伴わない純粋な痛みだった。それが無名の世代が授かった宝物なのかもしれない。無名は自分を可哀想だと思う気持ちを知らない。(『献灯使』44-45ページ)
(義郎は)子供はこれからもずっと生きていかないとだめだから、なんでも子供優先だ」
と答えた。
「でも子供が死んでも大人は生きていけるけれど、大人が死んだら子供は生きていけないよ」
と歌うように無名が言い、義郎は黙り込んでしまった。(47ページ)
偽の意味で「子供思い」な親が向き合わずにいる事実をあっけらかんと無名が言い、見たくないものを見せ付けられたような気持ちになった義郎が沈黙する。これは、義郎のような親が過保護であるという意味ではない。むしろ、過保護であるかのような子育てを強いられる環境を作り出した張本人として、義郎は責任や罪悪感、後悔や惨めさ、己の愚かさを感じている。そして、それが巻き戻し不可能であることについて、やりきれずに途方に暮れている。
「職業資格をとらせる学校側は月謝によって確実に儲かるが、資格をとった本人は仕事が見つからないか、あるいは安月給で身売りすることになる。これまでなかった素敵な名前を持つ職業には特に注意しなければいけない。本人も親も自分が生徒として受け入れられただけでそれが才能を認められた証拠だと思い込み、ありがたがって授業料を払う。その額が高ければ高いほど自分の価値が上がったように感じて喜んで払う。親にも子にも見栄がある。何もしていないとは思われたくないという不安もある。そんな心理を利用した悪質な職業学校が最近増えている。職業教育は本来、無料で行われなければおかしいということをいつの間にかみんなが忘れてしまったか」(51ページ)これも、いわゆる「教育に力を入れている」親にとってはグサッとくる一節だろう。大学や大学院が現代においては完全にビジネス化しており、教育者たちは生徒たちの卒業後の進路に責任を持たない。教師も生徒も保護者=スポンサーも、自分の個人的な教育問題の中に普遍的な側面を見出せず、見栄などの心理的な要素だけが先行している。『献灯使』に登場する義郎の孫の飛藻(とも)は、そのことを肌で感じ取って本能的に職業学校を避け、銀行なども信用せずに、義郎の贈り物である教育費をそのまま銀行口座から全額引き出して持ち去った。義郎の眼には信じられない親不孝な行為だったが、その後銀行が機能しなくなり職業学校の無益さも露呈すると、実はだまされていたのは義郎だったということが判明する。
他にも、ユーモラスな皮肉でやはり現在の真実を描き出す部分もある。例えば。
「敬老の日」と「こどもの日」は名前が変わって、「老人がんばれの日」と「子供に謝る日」になり、「体育の日」はからだが思うように育たない子供が悲しまないように「からだの日」になり、「勤労感謝の日」は働きたくても働けない若い人たちを傷つけないために、「生きてるだけでいいよの日」になった。(56ページ)また、例えば食べものを味の良し悪しで判断する習慣に対して、「毒素には味のしないものがたくさんあるのだから、いくら味覚を研ぎ澄ましても命を守ることはできない」という批判があったり、家族を持たない人を下にみるようなブルジョア的な視線に対しては、「義郎は善意に満ちた市民運動というものを日頃から警戒していた。ミルクのにおいのする善意の中には、暗くひねくれた作品の執筆に没頭して家族を顧みない男性作家への憎しみが硫酸のように含まれていて、気を許していると義郎の手の甲にこぼれおちて肌を焼く」(81ページ)と、相変わらず流れるように滑らかな比喩によって反撃がある。
こうしてみると、『献灯使』は精神的な基盤のレベルで、原発問題や環境問題に対する私たちの意識を、既存の言葉や考え方から解放してくれる。そして、「何が問題か」「何をするべきか」といった実践的な問いへとはやる気持ちにブレーキをかけてくれる。これは大切なことだ。なぜならば、実践的な問いは、それ以前の哲学的、芸術的な世界によってあらかじめ決定するから。そもそも、現在の状況とはどういうものなのか、それについて思考を巡らし感覚を開発してからでないと、袋小路の中を堂々巡りすることになる。『献灯使』はそんな堂々巡りから抜け出る裏路地のようなものなのかもしれない。