多和田葉子さんのホームページに、「.ausgestrahlt」という団体が出版している『原発に反対する100の理由』というパンフレットの和訳が載っている。全文はこちら。
以下では、このパンフレットの一部を抜粋する。
「(原発で働く)非正規の労働者たちは、破れていたり、埃が立つ放射性廃棄物入りの袋を担いだ り、放射線を放つコンテナの横でコーヒー休憩を取らされたり、完全防護服を着用しないで 原子炉の中心付近での作業をさせらりたりしたことがあると報告している。中にはあらかじ め線量計を外して作業している者もいる。なぜなら最大被曝線量に達したら、そこでの職が 終わってしまうからだ。結局のところ、誰も職を失いたくはない。」
「1990 年から 2000 年の間に、白ロシアにおける癌発症率は 40%上昇し、WHO はホメリ 地方だけでも 5 万人の子供たちが生涯の間に甲状腺癌を患うであろうと予想している。流 産、早産、死産が事故の後、劇的に増加している。原子炉付近に住んでいた 35 万人の住 民は、永久に自身の故郷から引き離された。」
「ドイツ連邦放射線防護局にある事故・故障の報告窓口には、ドイツの原子力発電所の安 全性にかかわる重大な事故・故障の報告が、毎年 100~200 件届けられている――1965 年から合計するとその数約 6,000 件。毎年、これらの届出のうち、重大災害に発展する可 能性を持った事故・故障が数件含まれている。これまでドイツで破滅的な大災害が発生し なかったのは、単に偶然と幸運が重なったからである。」
「ドイツにある原子力発電所は 1 つとして、燃料満タンの旅客飛行機の墜落に耐えること ができない。これは、原子炉安全協会が――当初は極秘資料として――連邦環境省依頼の 専門家鑑定に記されている。それどころか 7 つの原子炉はかなり薄いコンクリートの壁を持つだけで、戦闘機の墜落や 戦車装甲を貫通する兵器でさえ、破局的な大災害を引き起こすことができる。」
「12.6 万個の(低レベル)放射性廃棄物のドラム缶を原子力産業と原子力研究者は 1967 ~78 年の間にほぼ無料で「試験的な(低レベル)放射性廃棄物の最終処分場」であるアッセ II に廃棄した。この岩塩採掘跡地は数千年は安全であると専門家は断言し、浸水の可 能性は否定された。
その 20 年後、今では毎日 1.2 万リットルもの水がこの坑道に流れ込んでいる。これまで にいくつかのドラム缶は密閉性が無くなり、この岩塩採掘跡地は崩壊の危険にさらされてい る。」
「そして今、大規模な地下水汚染を避けるために、これまでに投入した全ての廃棄物を再 び取り出す事態となった。このための費用は――約 40 億ユーロまでの範囲だといわれてい るが――それを廃棄した事業者ではなく、納税者が負担することとなる。この処理のためだ けに CDU 党(キリスト教民主同盟:保守)と SPD 党(社会民主党:中道左派)の連立政権 は、原子力法を改正した。」
「原子力発電所は常時稼働するケースでのみ採算が取れる。しかし夜間に必要とされる電 力は尐ない。原子力コンツェルンが数十年にわたって、夜間蓄熱暖房機を推奨したのは自 明のことである。しかしその暖房機器が稼働するのは冬季だけである。それでは夏季の原 子力からの電力はどこで必要とされるのだろう? フランスの原子力コンツェルンEdF社は この分野の先駆者であり、すでにそれに対してすばらしい営業アイデアを展開している―― 彼らが推奨するのはエアコンだ。」
「原子力発電所は、私たちの生存権と身体を害されない権利を脅かす。それゆえ、ドイツ連 邦憲法裁判所は「カルカー判決」において、原子力発電所の稼動を「変動的原則」と結びつ けた。」
この判決によれば、原発の安全対策は、まず第一に、科学と技術の最新の状況に常に適 合していなくてはならない。第二に、原子炉は、想定しうるかぎりのあらゆるリスクから保護 されなければならない。このどちらも残念ながらなされていない。
それにもかかわらず、いまだどの監督官庁も、原子力発電所の稼働許可を取り消してい ない。」
「ドイツ政府の依頼で行われた極秘のフライトシュミレーション実験では、舵を握った被験者 の 50%が、ジャンボ旅客機を原子力発電所に突入させることに成功した。ドイツ連邦刑事 局は原子力発電所の空からの攻撃について「最終的にはその可能性を考慮に入れなけれ ばならない」と判断している。」
原発を「生存権の侵害」という観点から批判しているところが印象的である。また、原発を攻撃すれば簡単に国に打撃を与えることができる、という指摘も、言われてみれば当たり前だが大切だろう。地震や津波対策ばかりがニュースでは話題になるが、外国からの攻撃についても議論がもっとあっても良いのではないか。
さらに、原発で働く労働者についての記述も、読んでいて思わず表情が強張る。原発に限らず、個人の命を「手段」として利用するのは資本主義における労働市場の原理だが、原発作業員たちはこの原理の最も残酷な具体例の一つだろう。原発作業員のこのような労働条件について改善を求めるということは、資本主義を批判することと同じである。
また、事故後の健康被害についての記述も的を得ている。特に、癌と流産についての記述は読むだけで痛々しい。「癌」という言葉の重みは、癌を患った患者の立場を具体的に想像してみなければわからないだろう。
多和田葉子さんの他に、大江健三郎や坂本龍一氏など、原発問題に早くから反応し、継続的に活動してきた芸術家たちは多い。芸術家は、一方では他者の感情を敏感に感じ取ることが出来、他方では世に出回っている一般的な表現方法(言葉、物語、音楽など)ではこの感情が表現されていないという事実も実感している。そのため、芸術家は原発問題に敏感に反応するのだと思う。
対して、原発問題について距離をとろうとしたり、あるいは安易に保守的な立場をとるような人は、例えば癌や流産を経験する当事者の感情を想像するだけの想像力がない人である。単にそれを想像するための道具(過去の経験や教養、表現手段など)を持っていないからこうした人々はこのような立場をとるのだろうが、他方ではあえてこうした想像はしないでおきたいと、一種の恐れが原因で問題から目を背けている可能性もある。
芸術が場合によっては政治的にもなりうるのは、政治にとって直接影響力をもつような人々―例えば、原発事故の被害者たち―の感情を、優れた芸術家は思ってもみなかった方法によって鮮やかに表現してしまうからだろう。