Friday, 16 January 2015

健康と収入と日曜日

自分の仕事の仕方について決めるときに、健康をとるか収入をとるかという問題がある。非常に大切な問題だ。健康をとった場合、収入が低くてもそれについて不満を感じてはいけない。同じように、収入を選んだ場合は、過酷な労働を不満に感じてはいけない。

私は前者、つまり健康を選ぶ。理由は、お金にならないこと、例えば芸術や哲学などに、自分の一生を費やしたいと考えているからである。芸術や哲学に関わる活動をするためには、ある程度健康な身体と、それにもまして大切な健康な精神が必要である。健康な精神とは、簡単に言うと感情に支配されない精神である。次に自分のすべきことを決定し、それを行い、終わったら次に行く。

無我夢中で過酷な労働を続け、高収入を得ることを選ぶ人もいるのだろう。しかし、私はそういった道を選ぶことは躊躇する。理由は二つ。一つは、その結果心身共に消耗してしまっては、元も子もないからである。収入とは将来を安定させるために得るものだと思うが、安定させる将来自体が精神病や肉体の病気によって崩壊してしまっては、いくらお金があっても意味がない。

二つ目は、今自分のしていることに果たして価値があるのかという問題だ。仕事というのは、往々にして、ある目的の実現のための手段、つまり「サービス」であることが多い。むしろ、仕事とは全てサービスだろう。そして、そのサービスの成果を消費するのは、客である消費者である。例えば、食品生産者は食べる人たちのためのサービスを提供し、学校や塾の講師は生徒や親のためのサービスを提供する。これは当然大切なことだが、こうしたサービスは、提供する側にとっては、「やりがい」といった感情的な満足は生むだろうけれど、具体的な価値は生まない。だからこそ、「収入」という形で労働者はこの空洞を埋めてもらうのだが、しかし、それは「将来の安定」でしかなく、実質がない。

芸術や哲学などは、やっているだけで満足を得ることができる精神的な活動である。それは、例えば作品を創作したりテキストを執筆したりしている当人だけが満足を得るのではなく、その作品やテキストを鑑賞する他の人々にも同様の満足感を与える。

思うに、「日曜日」とは、そもそもそうした「お金にはならない、直接価値のある活動をする日」なのではなかったか。そして、日曜日を休日として扱うことが難しくなってきた状況においては、あえて自分の収入を低くおさえても、しっかりと「日曜日」とつくることが大切なのではないか。

仕事現場で過重労働を強いられると、日曜日が日曜日ではなくなる。つまり、休日とは、次に来る6日間の過重労働に耐えるための体力を回復する「手段」でしかなくなる。そこには、精神的活動をする余裕はない。しかし、これでは「日曜日」ではない。

そう考えてみると、「健康をとるか収入をとるか」という問いは、単に個人の好みの問題ではなく、文化的、あるいは政治的な問題でもある。日曜日をつくるよう心がける労働者が増えれば、そうした労働者に配慮する必要性が企業や職場においても当然生じるだろう。私は、場合によっては「労働をしない」という選択肢もありえるとすら思う。つまり、「仕事をしていないやつは情けない」といったいわゆる世間の声に負けて過労文化を肯定するよりは、そうした声はあえて無視し、普遍的な価値をもつ活動に身を捧げるほうが良いということだ。そして、名誉や安定といった視点から、こうした選択は必ずしも「ラク」ではないということ、つまり、必ずしも快楽を生むわけではないということも覚えておきたい。