『生活保護』という題名の小説(短篇か中篇か、あるいは長篇になるのかはわからない)がふと思い浮かんだ。「生活保護」という言葉が妙にひっかかったからだ。
生活を保護する―誰が? なぜ? どうやって?
保護される生活―それはどんな生活か?
生活保護受給者というのは、社会にとっての余所者である。かれらは、社会の一部であって、社会の一部ではない。これを英語では「part of no part」と呼ぶ。
一見すると、生活保護とは、働いている人々が税金によって無職のプータローを支援している、というだけのことにも思える。ここでは、労働者が無職者を一方的に支えていることになる。
しかし、社会的なレベルでは、生活保護者が何をしているかというのは非常に重要なことだろう。そして、生活保護者の存在を肯定できない社会とは、非常に貧しい社会だと思う。
生活保護者が、自分の個人的な快楽のためだけに存在する単なる消費者だとすれば、かれの存在を肯定するということは社会を快楽主義的、消費社会的にしてしまってよいと考えるのと同じである。つまり、こうした消費者としての生活保護者を支えることに違和感や反発を感じる人たちは、快楽主義や消費社会を暗に批判しているのである。
では、どのような条件のもとならば、生活保護者を税金によって支えてもよいと思えるのか? この問いへの答えは、社会全体をどのような思想のもとで形成したいかというもう一つの問いへの答えを暗に含む。
『生活保護』という小説は、税金によって支えるべき生活保護者を描くだろう。そして、この個人を描くことは、そのままある社会像を描くことにもなろう。
『ソクラテスの弁明』の中で、ソクラテスは自分への刑罰として、生活保護を要求した。つまり、アテネにとって、ソクラテスのような存在を保護することは、市全体にとってプラスであるとソクラテスは主張したのである。こうした主張を行ったがために、かれはかえって重い刑罰を受けることとなってしまった。『生活保護』の主人公も、理想的であるがためにかえって一般労働者の粗野な反感を買うことになるかもしれない。