Tuesday, 13 January 2015

プッシー・ライオット、ホドルコフスキー、イデオロギー

プッシー・ライオットのメンバーが釈放された。こちらこちらにそれに関連した記事がある。彼女らは、オリンピックのボイコットを呼びかけている。また、やはり最近釈放されたミカイル・ホドルコフスキーともすでに接触したという。「私たちが求めるのは結束(solidarity)です」とトロコニコヴァは言う。彼女らやホドルコフスキーなどの存在は、国の違いを超えて他の人々にも「考えること」を強く要求しているように思う。

何年か前、ホドルコフスキーがまだ裁判にかけられていた頃、かれに関するドキュメンタリー映画を観た。しかし、結局のところかれの何がいけないのかが今ひとつはっきりしない映画だった。当時は政治的な制約から映画監督がお茶を濁しているのかと思ったが、最近のホドルコフスキーに関する記事などを読むと、むしろプーチン側もなぜかれのしていることが問題なのかが今ひとつわかっていないように思える。

プーチンはアメリカをはじめとする西洋から独立したロシア領域を構築しようとしている。クリミアやウクライナなどとのいざこざはこのねらいから生じたものだ。それ以前のジョージア侵攻も同じ理屈である。これは、「ユーラシアニズム」というイデオロギーに沿った、一貫した計画である。

ユーラシアニズムは、リベラリズムに対抗するイデオロギーとして、アレクサンダー・ドゥーギンが提唱している。リベラリズムは、資本主義と個人主義とで、地域の伝統的な価値観を壊す。そのため、地域に根ざした生活がしたい人々にとっては、リベラルな価値観が入ってこない「聖域」が必要である―このような考えから、ロシアはいわば「能動的な保守」という態度をとっている。

リベラリズムに対抗するのは良い。プッシー・ライオットも、リベラルな―つまり資本主義、個人主義、そして快楽主義を軸とした―思想を批判している。しかし、ユーラシアニズムも、かなりの問題を抱えているのである。具体的には、刑務所や侵略戦争といった国家的なレベルでの暴力、ゲイなどの性的少数派への弾圧、そして、階級格差である。宗教や地理政治(geopolitics)などといった象徴的なレベルに気をとられすぎて、個人としての国民がないがしろにされている。

もしイデオロギーのレベルでリベラリズムを批判したいのならば、新たなイデオロギーを構築するのではなく、リベラリズムが見落としているものごとを指摘すればよい。例えば、個人主義的な快楽主義、つまり「個人の選択の自由」からくる快楽を傍受することに徹する姿勢は、芸術、宗教、学問などの視点から問題がある。さらに、快楽を傍受できない人々を排除するという側面もある。例えば、家族を支える親は、快楽を得る主体ではない。また、芸術や宗教活動によって客観的に、あるいは公共的に精神を発展させている人々も、やはりリベラルな社会からは疎外されている。

インタビューの中で、トロコニコヴァは「プーチンは臆病です」と述べている。一方的なイデオロギーを力で押し通さなければならない人というのは、実は非常に脆い立場にいるのである。他方、苦痛と貧困にあえぎながらも、例えばドストエフスキーやカフカ、ヘーゲルやニーチェのような人々は強者のように生き、死んだのではないかと思う。